まりびと

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DF 34 ミロシュ デゲネク

 空爆を知らせるけたたましいサイレンの音が、今も耳に残っている。

 ミロシュに戦争の記憶は断片的でしかない。セルビア人の両親を持つ彼はクロアチアに生まれ、一家はユーゴスラビア紛争に巻き込まれた。幼少のミロシュを連れて1999年にセルビアのベオグラードに渡った。しかし平穏な日々は訪れなかった。

 コソボ情勢の悪化に伴い、NATO(北大西洋条約機構)加盟諸国による大規模な空爆が始まった。ベオグラードもその対象となった。

 20年近く前の重い記憶を、ミロシュは静かに語り始めた。

「クロアチアで得たものをすべて失わなければならなかったと、両親、そして3歳年上の兄から話を聞きました。僕はまだ5歳。ベオグラードでは夜にサイレンがなると、地下に避難しなければならなかった。ユーゴスラビアという国が、戦争によってなくなってしまった。確かに戦争は私にとって良くない思い出です。でも一方でクロアチア、セルビアでの良い思い出も残っているんです。良いものも悪いものも見てきたなかで、これも人生の一部として受け入れていくしかなかった」

 彼は優しい目をした。


 ミロシュ・デゲネク、23歳。

 横浜F・マリノスの堅守を支える若きオーストラリア代表は、激動の半生を送ってきた。この世に生を受けたとき祖国は戦争の最中にあり、戦火を潜り抜けた一家は何のゆかりもないオーストラリア移住を決断する。財を失い、手元には1000ユーロしか残っていなかったという。平和に暮らせる生活を求め、シドニーへと渡った。

「父の友人からオーストラリアの話を聞き、両親は新しい人生のスタートを切るにはふさわしい場所だと判断したようです。大きな国で、シドニーは美しく、都会でした。私にとってオーストラリアは〝第2の故郷〟ではありません。〝第1の故郷〟だと思っています」

 新生活に慣れるまで多くの時間を必要としなかった。英語を学び、サッカーとも出会った。練習相手は兄だった。

「家の庭先で、兄と二人でサッカーをやっていました。僕の役目はゴールキーパー。シュートを打ちたい兄に命じられて(笑)。でもダイブするのが好きだった」

 ミロシュは好奇心旺盛な子供だった。

「父から〝やっちゃダメ〟って禁止されたことはやったし、〝行っちゃダメ〟と言われたところにも行った。小さいときは怖れ知らず。だから父からもよく怒られたし、愛のムチもあった。でも両親は厳しいしつけをすることによって、正しい方向に導いてくれた。父と母には感謝しています」

 父ドゥシャンは陸上競技800mのプロアスリートだった。スポーツマンの遺伝子は、ミロシュにしっかりと受け継がれていた。

 マーク・ヴィドゥカら歴代のオーストラリア代表を輩出したAIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)のエリートプログラムに14歳で合格し、2年間英才教育を受けた。サッカーに打ち込み、メキメキと頭角を現していく。

 2011年、ミロシュはメキシコで開催されたU-17ワールドカップでオーストラリア代表のディフェンシブミッドフィルダーとしてラウンド16進出に貢献する。そのプレーを見たドイツ・ブンデスリーガのシュツットガルトからトライアルに招くレターが届いた。

「もう、14歳ごろにはサッカーで生活していこうと心に決めていました。本場ヨーロッパでプロになるんだ、と。そのチャンスが実際に舞い込んできたわけです。こんなチャンス、二度と訪れないかもしれない。トライアル参加に迷いはありませんでした」

母ナーダだけは反対した。

一家はようやく安住の地を見つけ、オーストラリアで平和な暮らしを実現できた。戦争を経験して、一家で平穏に過ごせることがどれだけ幸せなことか、彼女は肌で実感していた。挑戦したい息子の気持ちは理解している。だが、息子が一人でヨーロッパに戻ることには抵抗があった。

「母は行かないで欲しかったと思う。でも父と兄が『頑張ってこい』背中を押してくれた」

 家族のためにも、絶対に成功する――。

 見事トライアルに合格し、その日のうちに3年契約のオファーを勝ち取った。目標にしていたヨーロッパでのサッカー人生が幕を開けた。強い気持ちを胸に秘めて。


 U-19とセカンドチームで過ごし、結局トップチームで出場することはできなかった。だが2015~16年シーズン、ドイツ2部の1860ミュンヘンに移籍するとトップチームで出場機会を増やしていく。センターバック、サイドバック、ボランチと複数のポジションをこなせるユーティリティー能力は評価され、昨年5月にはオーストラリア代表として国際Aマッチデビューを果たすことになる。

「ミュンヘンには2つのクラブがあって1つはメガクラブのバイエルン。そしてもう1つが僕のいた1860ミュンヘンでした。2部とはいえレベルの高いリーグで、多くのものをここで学ぶことができたのです」


 そして今年、F・マリノスからのオファーが届く。

 ヨーロッパでのキャリアを進めていく目標は、日本行きによって遠回りになってしまう可能性もある。だが、プロのサッカープレーヤーとして海外のクラブから評価されたことが何より嬉しかった。

「クロアチアに生まれ、セルビア、オーストラリア、ドイツ、そして日本。生活していく5つめの国になった。僕はこれまでチャンスとチャレンジを受け入れる人生を送ってきました。誰も知り合いがいないところに一人でやっていく。そうすることで人間としても成長できると僕は思っている」

 戦争体験を持つ日本には少なからずとも関心を抱いていた。

 アウェーで広島に遠征した際は、平和記念公園を訪れた。戦争を体験した一人として、平和に対する思いを噛みしめることができた。

「戦争は愚かな行為です。平和記念公園に行って、あらためて戦争は起こってはいけないものだと強く感じました。日本の戦争は70年以上前になりますが、ユーゴスラビアはまだ20年しか経っていない。戦後の日本が復興を果たしてきたように、日本から学べるところは多い。いろいろなことを、この日本で感じることができています」

 世界を回り、チャンスとチャレンジを受け入れてきたミロシュ。

 これから先、どのような未来が待っているのか。

 彼は言う。

「社会は、自分じゃコントロールできません。毎朝のように、暗い、良くないニュースが世界から飛び込んでくる。何が起こるかわからない未来を語るのは、正直難しい。ただ、自分がコントロールできることで言うなら、将来的に結婚して、子供にいろいろなことを教えていきたい。そしてサッカープレーヤーとして、キャリアを進めてきたい。僕は前向きな性格。未来をポジティブに考えています」

 チャンス、チャレンジ、ポジティブ。

 彼はいかなる境遇も受け入れて、地に足をつけて自分の人生をしっかりと踏みしめてきた。

 前だけを見ればいい。

 これからもミロシュが歩みを止めることはない。

二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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