まりびと

まりびと まりびと
まりびと MF 14 天野純選手

雨は降っていないのに、フロントガラスが濡れて見えた。

みなとみらいのクラブハウスに向かう車中。
悔しいから? 自分が不甲斐ないから? チームの力になれていないから?
涙の真相は、心に尋ねても分からなかった。

2014年のルーキーイヤー。自然と流れた静かな涙は、天野純に覚悟を促していたのかもしれない。負けず嫌いの自分に、客観的すぎるほど己を冷静に眺めようとする自分に。そう、このままじゃ何も変わらないのだ、と。あのときがあるから、今がある――。

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三浦市出身、プライマリーからのF・マリノス育ち。
順天堂大学ではユニバーシアード日本代表に呼ばれるなど成長を遂げたテクニシャンに、複数のJクラブからオファーが届いていた。

最後の最後に、古巣から声が掛かった。

「自分のことを必要としてくれる、熱意を感じるクラブに行きたいというのはありました。でも最後に話が来たときに、戻りたいという感情がたかぶったんです。だからその場で『お世話になります』と即答しました」

 4年前にユースからトップチームに進めなかったことは納得できていた。「昇格できても絶対に通用しない」その自己分析から引き上げてきた自負はあった。

2013年のチームは9年ぶりとなるリーグ優勝を逃がしたものの、天皇杯のタイトルを勝ち取った。強いF・マリノスに入っても「自分はやれるんだ」という思いのほうが大きくなっていた。

しかし、現実は違った。

細い体と弱い心は、容赦なく弾き飛ばされた。
「すぐにボールを奪われてしまうし、球際も(大学とは)全然違う。凄く苦労しました。先輩たちにも『何だよそのプレーは』と言われて、自分の実力が足りないことはもちろん分かっていましたけど、今思い出してみると、その悔しさもありましたね」

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もどかしくて、歯がゆくて。
涙を力に変えるべく、サッカー漬け、筋トレ漬けの日々が始まった。
午前のチーム練習を終えると昼食を取ってから再びグラウンドに出てボールを蹴り、その後で筋トレに入った。夕方、誰もいなくなったクラブハウスの風呂に入って寮に戻るのが日課になった。プロ初出場となった7月の天皇杯2回戦、ホンダロック戦でゴールを挙げても、リーグ戦での出番が訪れることはなかった。ひたすら自分を引き上げる作業を続けた。

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「胸の筋肉、上腕の筋肉、下半身をしっかりやりました。試合に出られないことは僕も分かっていましたから、耐えてやっていくしかないという思いでした」

トレーニングジムで黙々とやっていると、それをコーチやスタッフたちも見守ってくれていた。
これだけやってるんだから、絶対にいいことあるよ。
励ましてくれるコーチの言葉が心に染みた。苦しくなったら、その言葉を反芻するようにした。「本当にいろんな人に支えられて」努力のボリュームを上げていった。

「あのとき、すべてのJリーガーのなかで一番、練習しているっていう自負が僕のなかにありました」

客観に見る力と、客観を振り払って進んでいく力。いや後者こそが天野純なのかもしれない。
彼はエリートではない。ジュニアユース追浜に「ギリギリ昇格」して試合に出られるようになったのは3年生になってからだ。ユースでもBチームにいたほうが長い。目の前に壁がそびえ立つのは、毎度のこと。はい上がっていくのも同様だ。
手応えを確実につかもうとしていく。

「1年目で闘える体の土台つくって、だいぶ当たり負けしないようになりました。先輩に何て言われてもいいから、練習からガツガツやっていこうって。割と昔から、ピッチのなかでの負けん気は強いほうなんです。もうそこは制御しないようにしていたら、ある程度はやれるんじゃなかっていう感覚になっていきました」

2年目の2015年シーズン、ファーストステージ最終節のヴァンフォーレ甲府戦(6月7日)で待ちに待ったリーグデビューを果たすと、この年6試合(リーグ戦)に出場する。一方でもどかしさもあった。成長できている実感はあっても、継続的に試合に出られていない。また努力を引き上げていく。終りのないループが、天野をたくましくしたのは事実だった。

勝負の3年目、明らかに変貌を遂げた彼の姿があった。
2016年のファーストステージは途中出場の1試合のみ。セカンドステージが始まっても、チャンスは訪れなかった。
8月6日、アウェーでの柏レイソル戦。チームの大黒柱、中村俊輔のケガによってスターティングイレブンに名を連ねた。

「これでダメだったら移籍しようと考えていました。その相当な覚悟を持ってレイソル戦に出たんです」

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このクラブに残るためには、退路を断ち切るしかなかった。
確かなテクニックと、ガツガツの守備、そして運動量。攻守ともに温度を下げることなく、得点にも絡んだ。ガンガン飛ばして、最後は足がつった。

 技術に裏打ちされた冷静なプレーと、ガツガツとガンガンの冷静を振り払うようなプレー。その両面の魅力が、溢れ出ていた。この1回のチャンスをわしづかみにすると、彼は先発に定着していくようになる。ここまで取り組んできたことは、嘘をつかなかった。

 当時を思い起こしたのか、天野は大きく息を吐いた。

「プロになってからの3年間は、正直きつかったです。先輩やチームメイトに『何だよ』って言われてきて、見返したい、絶対にこの人たちを追い抜きたいって思ってやろうとしたところは間違いなくあります。あの環境じゃなかったら、自分の物足りないところを気付けなかったかもしれない。だからこそ本当に感謝しているんです。あのころの思いは、もうしたくない。それはこれからのサッカー人生でも変わらないことです」

強い体と、強い心を手に入れた。
 昨年リーグ戦33試合に出場し、5位に引き上げる一翼を担った。妥協なき体づくりは継続している。今は体幹トレーニングに重点を置く。目指すのは、うまくて闘えるプレーヤーになること。

「昨年のシーズンでも試合に継続して出ることができたのはうれしいですけど、全然満足なんかしていません。1試合ごとに課題が出てくるし、それに向き合っていかなければなりませんから」

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今季、アンジェ・ポステコグルー監督のもとモデルチェンジに挑んできたチームは〝産みの苦しみ〟に直面している。チームの一員として天野自身も、もがいている。

しかし――。
信念を持って耐えてやっていけば必ずいいことが待っている。その経験値を胸に、天野純は強い体と強い心に磨きを掛けようとする。

「今は苦しい時期ですけど、監督のもとで成長できているのは間違いのないこと。あとは自分の左足で勝利に導ければ……だからもっともっと自分にフォーカスしてやっていかなきゃって、そう思っています」

 弾き飛ばされる天野純はいない。あの日、涙を流した天野純はもういない。
 苦境を弾き飛ばすことだけを信じ、やり遂げるだけである。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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