まりびと

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MF 33 ダビド バブンスキー

 サッカーを生業(なりわい)とする人は、世界を旅する〝特権〟を有している。
 ダビド バブンスキーの父、ボバンがそうだった。

 イビチャ オシムのもとでユーゴスラビア代表にも選ばれたマケドニア出身のディフェンダーは、地元のFKバルダールでプロキャリアをスタートさせるとブルガリア、スペインでプレーする。1996年から2年間はガンバ大阪に所属。その後もギリシャ、スペイン、ベルギー、ドイツと渡り、最後はマケドニアに戻って現役キャリアを終えた。ボバン33歳、長男ダビドがまだ7歳のころだった。

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 ダビドは1、2年の短期間で世界を転々とする生活を、嫌いではなかった。世界から声がかかるサッカープレーヤーの父を子供ながらに誇りに思った。振り返ると2歳から2年間、過ごした大阪での生活も「ちょっとした絵として」記憶の片隅に残っている。

 住んでいた場所の近くに、公園があった。柔らかい日射しが降り注ぐなか、父や母と遊んだ。きれいで、にぎやかで。公園に行くというだけで、心躍る感覚があった。サッカーとの出会いもこのころだった。

 「2歳のとき、転がっていたサッカーボールを誰に言われたわけでもなく、自分から蹴りにいったそうです。きっと自分で何かを感じたから、そうしたんだと思うんです。父も『ダビドはサッカーをやるんだな』と受け取って、それでいろいろと教えてくれるようになったんだと思います」

 サッカープレーヤーになることは、運命だった。

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 その後も父と一緒に世界を回った。スタジアムに足を運んで父の試合を数え切れないほど観戦しながらも「どんなプレーをしていたのかは覚えていない」という。

 「母に言わせれば、落ち着きのない子供だったそうです。スタジアムを走り回って、試合をまったく見ていなかった(笑)。幼いころに父は引退してしまった。どういう選手かは、私がもう少し大人になってビデオを見て分かりました。そしてプロになった段階でそのプレーを見ると、技術、動き、ビジョンという私が持っているものは、父から授かったものだという実感を得ることができた。ゆえに父のプレーを見直すことで、自分にも活かせることができるんです」
 父のエッセンスが自分にも備わっていること。嬉しく思うと同時に、誇りに思えた。そして父が何よりの教材になった。

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 父になかった経験が、息子にはある。
 それが欧州の名門クラブ、FCバルセロナで過ごした10年間だ。ここで受けた影響が、プレーヤーとしての源流となっている。

 父が引退し、定住先となったのがスペイン・バルセロナだった。ダビド少年にとって、FCバルセロナは憧れの対象だった。
 ダビドは12歳のときにカンテラ(バルセロナの育成組織)に入っているが、実は一度、入団テストで失敗した経験があるという。

 「バルセロナは自分が入りたいからと言って、所属できるクラブではありません。セレクションに呼ばれて、そこで合格しなければならない。8歳のときに私はそのセレクションを受けさせてもらったが、合格できなかった。それでカタルーニャ州のグラメネトというクラブに入って12歳までプレーしました。そしてクラブが全国大会に出て、バルサから『もう一度テストに来ないか』と誘いがあったんです」
 落選した悔しさが、あなたを発奮させたのか?

 ダビドは静かに首を横に振った。
 「いいえ。落ちたからと言って、くよくよなんかしていません。それは何故かと言えば、彼らはまた私を見つけくれるはずだと信じていたからです。自分のポテンシャル、質を分かっていたので、入るべき選手、選ばれし選手だと疑っていませんでした」

 いつも隣で励ましてくれたのが母、ジュリアナであった。
 「あなたなら大丈夫よ」
 その言葉によって、揺るぎない自信が形成されていった。

 バルサの育成組織に入り、ふるい落とされることなくカテゴリーを一つずつ上げていく。トップチームと最初にトレーニングした際の思い出は今も強く心に残っているという。

 「トップチームの選手たちからすれば、『何しに来た』くらいの感じであってもおかしくない。実際、私はかなり緊張していました。ジョゼップ グラルディオラが監督で、リオネル メッシ、ジェラール ピケ、アンドレス イニエスタ、ダニエウ アウベス……素晴らしい選手が、目の前にいるわけです。でも彼らは壁をつくらず、逆に距離を縮めてくれました。メッシをはじめ、みんな『君は選ばれてここにいるんだ』『やってみろ。やれるはずだから』と言って、乗せてくれる。接しやすく、私は本当に素晴らしいクラブにいるんだと自覚させてくれた。でも彼らのパス回しには入りたくなかった。何故かって? それはパス回しがあまりに早くて、最初は目が回ったほど(笑)。特にメッシは魔術師です。本当にすごい選手です」

 トップチームで彼らと一緒にプレーしたい。その思いはますます強くなった。
 2013~14年シーズン、彼は19歳でバルセロナBに昇格する。目標まで、もうあと一歩のところまでやって来た。だが2シーズン半、リーグ3部にあたるセグンダBでプレーしたが、トップチームからお呼びが掛かることはなかった。

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 ダビドは決断する。10年間在籍したバルセロナを離れることを。父と一緒に世界を回った経験が、背中を押してくれた。
 2015年1月、彼はセルビアの名門レッドスターに移籍する。

 「バルサと合意のうえでクラブを離れました。理由はいくつかあります。クラブからはトップチームに上がることは難しいと通達されていました。もちろん、私は『やれる』と思っていましたが。ならば、外に出ることで成長しようと思ったのです。バルサで学んだことをどう活かしていくか。それが私の次のステージになったのです」

 だが、レッドスターではバルサ仕込みのテクニックを評価されず、なかなか出場機会を得られなかった。欧州の他クラブから勧誘があるなかで、彼は父の後押しもあってオファーのあった横浜F・マリノス行きを決める。

 「F・マリノスからオファーがあったとき、迷うことなく決めました。実際、その判断は間違っていないと思います。若いプレーヤーが成長できる、素晴らしいリーグだと感じていますから」

 父が愛した日本で、自分もプレーすることに「不思議な縁」を感じずにはいられなかった。公園で遊んだ思い出がふと頭をよぎった。心躍る感覚。20年後、F・マリノスで過ごす日々もそれは同じだった。イメージしたとおり、自分が心身ともに成長できる環境がここにはあった。

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 サッカーも人生も同じ。哲学、心理学の本を愛読する23歳は、語る。
 「自分を曲げず、自分を信じていれば、人生もサッカーも良い方向に行くと信じています。自分の人生をより良くしていくために、得た経験をもとに実行していくだけです」

 ダビドは自分を曲げない。自分を信じている。

二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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