歯を食いしばってリハビリに励む選手に、いつも寄り添っているあの人。
日暮清ヒューマンパフォーマンスダイレクター、その人。
きつくて、厳しくて。
でもみんな声をそろえる。
「日暮さんの気持ちが伝わってくるから、どんなきついリハビリメニューでも手を抜けない」
どんな気持ち?
ピッチに早く戻ってほしい。いや、それ以上であることをみんな分かっている。
「彼らが試合に戻って、最高のプレーをしてくれること。そのためには僕だって手を抜けない。最高のプレーを見届けて、家に戻ってプシューッて一杯やる。もうこれがね、僕にとって最高にたまらない瞬間なんですよ」
笑顔が似合う53歳のベテラントレーナーは、そう言って缶ビールのプルタブを開ける仕草をした。
日本スポーツ界にトレーナーという言葉が定着していなかった30年以上も前。
体育教師を目指して国際武道大学に進学した日暮は、トレーナーという職業の存在を知ってアメリカに目を向けたという。
資格は日本になく、アメリカにあったからだ。
柔道など武道を学ぶためにやってきた留学生を見つければ、積極的に交流を持つことにした。
つたない英語をぶつけ、語学力を上げようとした。
友人からは「ひっつき虫」とからかわれたという。
留学生にひっついて、コミュニケーションを取る。
しかしそのあだ名は、本気度を表す勲章でもあった。
アメリカの大学院に進学する条件であるTOEFL550点以上を現地でクリアした。
夢は体育教師から、トレーナーになった。
大学院に在学中、彼は現地でトレーナーの第一歩を踏み出すことになる。
1992年、ウエスタンミシガン大学スポーツメディスンクリニックが最初の勤務先となり、その後ハンプキン高校でトレーナー活動を始める。
UCIの専属トレーナー時代
学校にスポーツトレーナーがいるのは、アメリカでは普通の光景。
その新人トレーナーは、いきなり〝事件〟に巻き込まれた。
アメリカンフットボールの練習中、高校の駐車場で事故が起こった。
3、4人が巻き込まれて「骨が突き出てしまう」ほどの大ケガを負った。
日暮は冷静沈着に完璧な応急処置を施したうえで到着した救急車にケガの学生を一人ひとり乗せた。
「アメフトでもよく骨折はありましたから。アメフトのピッチが、駐車場に変わっただけ」
喜んだのが校長だった。
「キヨシのおかげで助かった」とその活躍と評判は校内に広まった。
しかし、日暮はトレーナーの仕事をより学び、より高めていくために一つの場所にとどまろうとしない。
93年にはカルフォルニアに移って、アーバイン大学やチャクフェルダースポーツメディスンクリニックで働く。
その間、全米ジュニアテニストーナメント、西海岸国際柔道選手権、NBAサマーリーグ、全米柔道選手権、そして94年のアメリカワールドカップでもトレーナーを務めている。
全米アスレチックトレーナーズ協会(NATA)、全米ストレングス&コンディショニング協会(NSCA)のライセンスを取得。
トレーナーとして経験を積んでいき、日本のスポーツ界から関心を寄せられるようになっていた。
94年のアメリカワールドカップ・トレーナー時代
「自分のステップアップを考えたときに、ヘッドトレーナーをやってみたいという思いが強くなりました。アメリカではまだやれていなかったので、日本にも目を向けてみようと思ったんです」
プロ野球の球団を含めて多くから声が掛かり、そのなかで彼は1995年、Vリーグの小田急バレーボールクラブを選択し、女子ユニバーシアード代表でもトレーナーを担当した。
「ユニバーシアードではトレーナーの仕事だけではなく、フィジカルコーチの役割もやらせていただくなど、いろんなことをチャレンジできました」
95年のユニバーシアード福岡大会で女子バレー代表は16年ぶりにメダルを獲得。
その日暮の評判を聞きつけたのが、横浜マリノスであった。
当時の森孝慈GMからヘッドハンティングが掛かったのだ。
「ケガ人が多く、選手からもリハビリを指導してくれる専門家を呼んでほしいという声が挙がっている。ウチに来てくれないか」
熱心な誘いに、日暮は心を動かされて96年にマリノスと契約する。
07年までの12年間、日暮はヘッドトレーナーとしてマリノスとともに歩むことになる。
本場アメリカ仕込み、最先端のリハビリは的確で計画的だ。
「ショートタームでどうするか、ロングタームでどうなるか、復帰がいつになるのか」を選手、監督、コーチに説明して納得させた。
歴代の指揮官からも信頼厚く、「早く戻してくれ」のリクエストもない。
最善かつ最短のリハビリ計画だと分かっているから。
特にオズワルド アルディレス監督は「F・マリノスのメディカルは実に素晴らしい」と絶賛の言葉を並べてくれた。
日暮のこだわりの一つは、リハビリメニューを実践してお手本を見せること。
「論より証拠ですから。このステップをやってみてと言っても僕ができなかったら話にならないじゃないですか。でも僕がスパイクを履いて見本をやったときに、肉離れを起こしちゃって。あれからはイボシューか、アップシューズでやるようにしています。もうスパイクは履きません(笑)」
お手本だけが目的ではない。きつくて、厳しいメニューであることは百も承知。
「ケガを一緒になって治すんだ」という本気の姿勢を見せる意味がある。
「選手がケガをしたときに、僕のところにやってくる。言わば、一期一会。適当にリハビリをやってしまったら、適当に仕上がってしまうんです。どんなにつらくても、どんなに嫌われても、ここでしっかりやることによってケガを回復させるだけじゃなく、鍛えることになる。そうしたらピッチに戻ったときに〝違い〟が分かる。(ケガで)また戻ってくるんじゃないぞ、と。そういう願いもあります。この出会いを大切に、だから一期一会だ、と」
日暮は人との出会いを大切にする。そしてその人と真剣に向き合う。
選手のみならず、スタッフ、コーチ、そして監督とも。
03年から就任した岡田武史監督からは「お前みたいに何でもズバズバ、言ってくるトレーナーは初めてだ」と言われたことがある。
いやいや、実は言いたくてもなかなか言えなかったこともあるんです。日暮は、そう返した。
実は西洋医学を学んできた彼は、東洋医学の鍼灸に関心を持って多忙なトレーナー業の合間を縫ってひそかに学校に通っていた。
しかしチームにケガ人が多いことなどもあって休学に踏み切った事実を、岡田に打ち明けたのだった。岡田は怒った。
「それはやるべきだ。何故、言いに来なかったんだ。テーピングなら俺だって巻ける。だから休学しないで、資格を取ってこい」
認めてもらうために言ったつもりではなかった。
だが結果的に背中を押される形になり、休学を解いた。
そこから3年掛かり、岡田がF・マリノスの監督を退任した後に鍼灸師の資格を取得した。
感謝の気持ちを伝えるため、日暮は岡田に電話ではなく、手紙を書いた。
「ありがとうございます。あのときの会話を覚えていますか? 感謝しています」と。
すぐに返事はやって来た。会話を覚えていた。そしてこう書かれてあった。
「監督の仕事も、トレーナーの仕事も同じ。それは人を幸せにすること」
胸に響いた。響きまくった。
岡田から受け取った葉書は大切にしまってある。
日暮は噛みしめるようにして言った。
「岡田さんとの出会いがなかったら、今の自分はなかった。本当にそう思っています」
人を幸せにする、自分の仕事。
そのためにも現状に満足することなく、己を高めていかなきゃいけないとあらためて心に刻むことができた。
日暮は08年からアルビレックス新潟に在籍し、17年に入って10年ぶりにF・マリノスに復帰した。
リハビリに励む選手を前に、手本を見せるスタイルも変わらない。
きついメニューを強いる厳しい目と、彼らを見守る温かい目。これも変わらない。
心強い「ひっつき虫」が選手を力強い復帰に導いている。
そして、今も、学ぼうとする姿勢を忘れない。
オフにはロサンゼルス、メルボルン、マンチェスターと世界中を回って講習会に参加するという。
「トレーナーはフィルターなんです。そのフィルターがいい加減であってはいけない。リハビリに取り組む選手たちがやりたくないと思っていることも、理解してもらいながらやってもらっています。過程をしっかり踏んで、しっかり復帰できる。僕がしっかりとしたフィルターでなくちゃいけないと思っています」
一期一会、日進月歩。
日暮清が大切にしている言葉。
出会いを大切に、日々を大切に―。
二宮寿朗Toshio Ninomiya
1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載