まりびと

まりびと まりびと
まりびと MF 5 喜田拓也選手

いきなり任された仕事を、やり切る、やり遂げる。
器用だから? 想定していたから? 本番に強いから?
どれも合っているようで、喜田拓也の本質を表してはいない。

9月1日、日産スタジアム、柏レイソル戦。
前半途中、左サイドバック山中亮輔が左ハムストリングを負傷したため、彼は中盤から回ることになる。
本職ではないポジションながら、アジャストどころかそこから発する熱がチームの体温を上げていく。スピードある伊東純也を食い止め、前に出ていく。

どうしてスンナリやれちゃうのか?
単純な疑問に、苦笑いで返す。「最終ラインに入るので(中盤と)守り方も変わってくる。細かい話、ステップや1対1の対応も変わってきます。景色だって違う。そういった難しさはあります。でも、ベンチもある程度やれるだろうって思ったから僕を起用したんだろうし、それに想定外のことが起きたときに助け合うのがチームスポーツの面白さだと思うんです。だから、やってやろうって。あのときは〝気持ち〟だけでした。あと……」

あと?
苦笑いを消して、強い眼差しをこちらに向ける。

「山ちゃん(山中)、相当悔しかったと思うんですよ。古巣との対戦で、気合いも入っていたでしょうから。そういうことを考えても、せめて勝って、山ちゃんにいい報告したいなっていうのもありました」

仲間のために、チームのために、モチベーションを高めて体を張る。
着飾らない、まっすぐな思い――。

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いつも周りに支えられてきた。

まず家族の支え。
5つ上、3つ上になる兄の影響を受けて、サッカーボールを蹴り始めた。両親はいつも温かくサポートしてくれた。「やっぱり家族が一番応援してくれているとは思う」と彼は言う。2人の兄は弟の背番号と名前が入ったユニホームを着て、スタンドで声援を送ってくれている。

「僕、小さいときはずっとアニキについていって、上の学年の人に混じってサッカーをやらせてもらっていたんです。あの経験が大きかったですね。今、アニキたちは会社に勤めて一生懸命仕事をやっていて、尊敬しています。僕なんかよりアニキたちのほうが全然、凄いと思っていますから」

photo 次に、指導者、一緒に過ごしてきた仲間たち、スタッフの支え。
プライマリーからジュニアユース、そしてユースと小学1年からF・マリノスのエンブレムを胸につけてきた。ポジションはフォワードから始まり、サイドハーフもセンターバックもやった。どのポジションをやりたいかは二の次。仲間と一緒に試合に出て、勝ちたい思いがあった。全国少年サッカー大会で優勝し、みんなと喜び合うことができた。
ジュニアユースでは尾上純一監督、そしてユースでは松橋力蔵監督のもと、ボランチとしてメキメキと成長を遂げていく。U-17ワールドカップにも出場した喜田は、その世代で唯一、トップチームに昇格した。

しかしプロ1、2年目は試合になかなか絡めなかった。

「シンプルに自分の力が足りないだけ。高校から出たばかりと言っても、そこに甘えるのは違うなと思いました。だったら、昇格してくるなよっていう話じゃないですか。苦しいのは苦しかった。でも心が折れることはまったくなかったですね。一人じゃなかったですから」

筋トレもやった。全体練習が終わっても遅くまで残ってボールも蹴った。コーチやスタッフも付き合ってくれた。尾上、松橋含め、育成組織の指導者や仲間たちが、はい上がろうとする自分を見守ってくれているのも分かった。苦しくてたまらないタイミングで、声を掛けてくれたこともあった。

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なぜ乗り越えることができたのか?
真っ直ぐな人は、即答した。

「周りの人のおかげです。自信持って言えます。指導者の人も、僕と一緒にサッカーをやってきたみんなも、喜田なら絶対に出来るって信じてくれていました。だから自分から降りるなんてこと絶対にできない。プロになってからもコーチ、スタッフ、そしてチームメイト、先輩……みんなが声を掛けてくれて、その人たちにもという思いが突き動かしたのかなって思います」

明けても暮れても、コツコツとサッカーだけに費やした。誰かが見てくれている、期待してくれていると思うだけで、立ち止まらずに済んだ。

あの日のことは忘れない。

プロ3年目、リーグ戦初先発となった2015年4月4日、アウェーでの柏レイソル戦。
中村俊輔がケガで外れ、本職ではないトップ下で起用されることになった。柏に向かうチームバスの中、気持ちの高ぶりを抑えられない自分がいた。そのとき携帯電話のショートメールが届いた。中村からだった。


『ボールが来る前に周りを見ること』
『気合い入れすぎず、余裕かませ』



心が震えるというのは、こういうことだと思った。

「びっくりしました。俊さんのポジションに若造が入るわけですから、普通、そんなこと出来ないと思うんですよ。普段からアドバイスはたくさんしてくれていたので『周りを見ろ』は、そうやっておけば大丈夫という意味があったと思うんです。『余裕かませ』は正直、しびれました。やんなきゃいけないという気持ちばかりがありましたから。僕の性格も分かったうえで、俊さんは伝えてくれたんです。肩の力がスーッと抜けていきましたから、本当に」

 中村だけではない。みんなから「思い切りやってこい!」と背中を押された。ハーフタイムになるとベンチの藤本淳吾からも細かいアドバイスを受けた。ガムシャラに戦った。周りを見た、余裕もかました。ラストパスも送った。気が付けば、途中交代もなく90分走り切って、逆転勝利を収めた。

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あのときがあるから今がある。本職じゃないポジションで初先発するのも、何だか彼らしい。周りが支え、それに目いっぱい応えようとする。以降、出場機会を増やしてレギュラーの座をつかんでいく。まるで運命のように。

ひと呼吸ついて、喜田は再び語り始める。

「僕にはこんな(支えられてきた)話が数えきれないほどあるんです。だから僕も、周りの人をみんな大切にしたい。受け継いでいきたい。きれいごととか、建前とかじゃなくて。僕はF・マリノスが好きだし、F・マリノスを愛してくれる人みんなが好き。僕はこういうことを口にすることが恥ずかしいとも思っていません。この思いを表現することで、逆にパワーになっていきますから」

どうして彼は、喜田拓也は、多くの人に愛され、支えられるのか。
答えは単純明快である、

彼自身が支えようとするから、自分の出来る範囲で一生懸命に支えようとするから。器用ありきのユーティリティーではなく、どんな形でもいいからチームのためになりたいという不器用のユーティリティー。〝人から大切にされる〟より前に〝自分が大切にする〟〝人から信頼される〟前に〝自分が信頼する〟。それが喜田拓也という男なのだろう。

 チームは残留争いに身を置き、苦しい戦いを続けている。
 喜田は今、何を思うのか。

「まったく理想ではないし、現実でもある。でもこの状況で、あらためてF・マリノスって偉大なクラブだと感じているんです。先輩たちが人生を懸けて、覚悟を持ってつないできた歴史、伝統を僕たちが崩しちゃいけない。僕らもみんな人生懸けてつないでいく義務がある。その一心ですね。ひとりでは小さくても、みんなでまとまればもの凄いパワーになる。これを受け止めて力強く進んでいくしかいかないと思っています」

チームを支える覚悟、この状況を先頭に立って背負い込む覚悟。
きれいごとでも建前でもない。
真っ直ぐに、どこまでも真っ直ぐに。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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