まりびと

まりびと まりびと
まりびと 木村 和司

一枚の写真がある。

鹿島アントラーズ戦を盛り上げる企画「The CLASSIC」の一環で用意されたポストカード。F・マリノスの「10番」を引き継いだ天野純をバックに、25年前産声を上げたばかりのJリーグでキックを放つ木村和司の姿がモノクロで浮かび上がっている。

樽のような丸々としたぶっとい太腿は、はち切れんばかりだ。トランクスがやけに小さく見える。

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60歳になったレジェンドは試作用のポストカードを手にした筆者の声を聞いたのか、つぶやくようにして言う。

「1日、何本くらい蹴りよったかの。遊びで蹴って、シゲ(松永成立)を呼んで。200本、300本……。蹴っとったら、自然とそれくらいの数にはなるんよ」

口数の多くない剛健の人は、決して努力とは言わない。
蹴り込んだその「証」から、人々を魅了するキックは放たれた――。

38年前、日本にまだプロサッカーがなかった頃。
明治大学在学中に日本代表でも活躍していた木村には日本サッカーリーグ(JSL)の各チームから多くの声が掛かっていた。プロ契約に近い読売クラブに惹かれたものの、最終的には2部に降格した日産自動車を選んだ。結婚が決まっていたために、妻の両親に安心してもらいたいという思いもあった。しかし何よりも加茂周監督の存在が大きかったという。

「加茂さんと一緒に食事をしたとき、『面白いサッカーをしようや』と誘われて。これからチームを強くするぞっていう強い意志が凄く伝わってきた。2部とか1部とか、そこは関係なかった。話の持っていき方が、あの人はとにかくうまいんよ(笑)」

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ゴールにこだわる攻撃サッカー。

加茂監督に口説き落とされて、日産自動車に入社する。この名キッカーの加入が、日産自動車サッカー部の転換点となる。新たな歴史の始まりであった。当時は当然ながら社業とサッカーを両立しなければならなかった。

新入社員の木村は人事部に配属され、朝8時に出社して昼まで仕事をしていた。寮に戻って昼食を取り、午後2時からトレーニングに励んだ。部には県立広島工業高校の先輩、金田喜稔がいた。2人の活躍もあってチームは1年で1部に復帰。新日鉄との入れ替え戦で、木村は直接FKを叩き込んでいる。早くもチームの大黒柱になっていた。この年に、サッカー専用の獅子ヶ谷グラウンドが完成した。

「画期的やったね。クラブハウスがあってトレーニングルームや、一人ひとりのロッカーもある。当時は珍しいというか、ここまでそろっていたのってほかにはなかったんじゃない? それもこれも加茂さんの力よね。会社と交渉して、選手が必要と思うのはそろえてくれた。新幹線でグリーン車移動というのも加茂さんのおかげ。選手のことを、一番にいつも考えてくれた」

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忘れられないのが、鉄骨を組み立てた〝壁〟だ。フリーキック練習用のダミー人形などなかった時代に、加茂がわざわざ木村のために特注でつくらせたものだった。

「下に車輪がついとるんやけど、鉄だから重いんよ。あれを引っ張り出すのが大変。でもあ りがたかった。あれでうまくなったようなもんよ」

練習自体は「厳しかった」。しかし練習が終わったら「遊び」が待っていた。日が暮れるまでボールを蹴った。一日ごとにうまくなっていく自分を感じることができた。同時に新たな欲も生まれる。もっとうまくなりたい。

3年目の1983年には水沼貴史、柱谷幸一ら続々とタレントが入団してきて、チームはついに天皇杯を制覇する。創部11年目にして初めてのタイトルだった。木村自身、日産時代の一番の思い出はこの優勝だという。

「清水(秀彦)さんをはじめ、みんな日本一を目標にしてきたから。貴史とか加茂さんがいい選手を連れてきてくれて、より『面白いサッカー』がやれるようになったんでね。あのときはうれしかったな。ワシにとっても、サッカー人生で初めての日本一だからな」

木村は1983、1984年とJSLで2年連続のリーグMVPに輝いている。右ウイングのポジションを中盤に移し、多彩なパスで味方を活かした。逆に中盤から右ウイングに移った金田とは「名コンビ」と言われた。

イマジネーションとコンビネーション。

プレーしているほうも、観ているほうも「面白いサッカー」。しかし、ただ面白いだけではない。「勝つ」と「面白い」を両立させる。加茂の目指したもの、木村が志向したものが、ドンドンと発展していく。
入社して4年後、サッカーに専念したいという気持ちから正社員から契約社員に切り替えてもらった。保証よりも勝負を求めた。

「正社員じゃなくなるのは大変かもしれん。でも外国人選手と同じように『ワシもそうさせてください』って会社にお願いして、デニーズで契約したことを今でも覚えとる。これも加茂さんが会社に働きかけてくれた。今のプロで言えば、最低ラインくらいの給料やったと思うよ。でもサッカーでメシを食うっていう覚悟はできたね」

あの〝伝説のFK〟で知られる1985年メキシコワールドカップ、アジア最終予選の韓国戦に敗れたことが、日本サッカーにプロ化の動きが始まる。木村は奥寺康彦に続いて事実上のプロ契約「スペシャルライセンスプレーヤー」を勝ち取った。
プロとして魅せるプレーをしなきゃいけない。素晴らしいプレーをしなきゃいけない。自分が活躍することで、プロの道を加速させていかなきゃいけない。
この使命感が、逆にプレッシャーとなって木村の背中に重くのしかかった。

「いいプレーしようって思ったら、体が思うように動かんし、プレーも全然ダメよ、自分を出す〝我が、まま〟を出せないでいた。(ストレスで)太ったりということもあったしな」

重い荷物を降ろすことにした。
余計なことを考えず、サッカーを楽しく、面白く。
その後、日産自動車は88~89年シーズン、89~90年シーズンとJSL、天皇杯、JSLカップの3冠を2年連続で達成する。木村もリーグMVPを獲得し、日産黄金期の象徴であり続けた。

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円熟期に入っていた木村に、目指すものができた。Jリーグが生まれることになったのだ。

「個人でプロになっても、やっぱりプロのリーグというものを自分の目で見ておきたかったし、経験したかった。それで現役選手として長生きできたところはある。ワシらは元々、お客さんに来てもらおう、お客さんに喜んでもらおうとやってきたから」

「面白いサッカー」でタイトルを取り、強豪と呼ばれるようになった。その日産自動車サッカー部を基盤にした横浜マリノスの船出に、自分がかかわるということが己の使命だと思えた。
1993年5月15日、東京・国立競技場。Jリーグのキックオフを告げるヴェルディ川崎との開幕戦に、木村は34歳でピッチに立った。

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「あんなにお客さんが入るなんて、つい数年前までは考えられんことやったから感慨深いものはあったよ。みんなよう走っとったよな(笑)。ボールは全然、外に出んし。今見ても、当時のサッカーは面白かったと思うよ」

翌1994年シーズンを最後に引退を決断する。
サッカーをやり切って、体力を使い切ったはずだが、「もっとうまくなりたい」と語った引退会見はサッカーに真摯に向き合ってきた木村らしくもあった。

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あの日「面白いサッカーをやろうや」と誘われていなければ、違うサッカー人生が待っていたのかもしれない。木村は、日産自動車サッカー部に縁をくれた加茂に感謝する。

「ほんと、加茂さんのおかげよ。あの人がおったからよ」

それ以上の言葉は必要ないと言わんばかりに、頷くような仕草を繰り返した。

1972年の創部以来、多くの人がかかわり、積み上げてきて今の横浜F・マリノスがある。
加茂がいて、木村がいて、すべてのOBがいて――。

一枚の写真が伝えていること。

うまくなれ、楽しめ、勝て。
樽のようなぶっとい太腿が、それを伝えている。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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