クリリンには亀仙人という師匠がいる。
スケベキャラながら武術は達人。「武道は勝つためにはげむものではない。己に負けぬためじゃ」などと胸に突き刺さる〝教え〟を適時授かりつつ、クリリンは厳しい修行を積んで強くなっていった。
愛してやまない「ドラゴンボール」。クリリンの愛称で呼ばれ、好きが高じて左腕にタトゥーまで刻んだマルコス ジュニオールはゴールが決まるたびに「かめはめ波」や「気円斬(きえんざん)」をブッ放す。必殺技(ゴールパフォーマンス)には、本物に負けないくらいのキレがある。
マルコスにもとびっきりの師匠がいる。
サッカーを熱心に教えてくれ、プロに導いてくれた人。一人の人間として成長させてくれた人。マルコスの叔父にあたるアレッシャンドレとの心温まるストーリー。
マルコスは1993年1月、ブラジルの首都ブラジリアに生まれた。両親の寵愛を受けてすくすくと育ち、幼少の頃からストリートサッカーに熱中していたという。地域の子どもたちのためにと立ち上げたアレッシャンドレさんのサッカースクールに、マルコスも8歳から通うようになる。
「小さい子どもたちも非行に走ってしまう環境がブラジルにはあります。僕を間違った道に行かせないようにと父が叔父に預けたんです。今、振り返ってみてもいい指導をしてもらえたと感謝しています。全体練習が終わると必ず個人レッスンが待っていました。右のトラップはこうしなさい、左のトラップはこうしなさい、パスはこうだ、とか基礎のスキルを丁寧に授けてくれました」
(写真左が叔父のアレッシャンドレさん)
マルコスもうまくなっていくのが楽しくて仕方がなかった。午前中にサッカーをしてから学校に行き、休憩時間もやるのは決まってサッカー。学校が終わって夜になってもずっとボールを蹴っていた。11歳になってからは叔父のスクールと、天然芝を持つ別のスクールと掛け持ちするようになる。自然と「プロ」を意識し始めていた。アレッシャンドレさんにも段々とレベルの高いプレーを要求されるようになっていく。熱心に指導してくれる叔父の夢も自分をプロ選手にすることだとマルコスは感じていた。
逆に両親は、サッカーにどっぷりはまっていくマルコスの未来を案じていた。勉強がおろそかになり、進級も危なくなっていたという。
ある日、母親から「もしテストが悪かったら、次の試合には行かせない」と言われ、マルコスはアレッシャンドレさんの家に1週間ほど寝泊まりして毎日5時間以上、猛勉強した。勉強を教えてくれたのも叔父さん。「いい点数を取って」進級でき、マルコスはサッカーを続けることができた。
アレッシャンドレさんから教わったのはサッカー、勉強だけじゃなかった。
子どもから成長していく過程で、社会的な常識であったり、正しい考え方であったりを、教えられました。プロになるためには、サッカーがうまくなるだけじゃなくて、しっかりとした人間にならきゃいけない、と」
12歳になってブラジリアを離れ、リオデジャネイロの名門フルミネンセの育成組織に入団を果たす。ここでも叔父のサポートがあった。
実は地元ブラジリアにある2クラブと、フルミネンセとそのライバル関係にあるフラメンゴが候補に挙がっていた。アレッシャンドレさんは熱心なフラメンゴサポーターであったが、インターネットで育成組織の施設、環境面を調べたうえでマルコスにライバルであるフルミネンセを勧めてくれたという。
故郷を離れてスタートしたプロへの道。
ホームシックに悩まされ、スーツケースに鍵を掛けずに盗難被害に遭ったことも12歳の少年には大きなショックだった。周りは知らないヤツばかり。たまらず、アレッシャンドレさんに電話を掛けた。
「もう帰りたいよ」
マルコスの悲痛な声に、大きな励ましの声がかぶさった。
「もう少し頑張りなさい。我慢してやっていけば、絶対に乗り越えられるから。これを乗り越えないとプロにはなれないんだぞ」
敢えて突き放しているようにも聞こえた。マルコスは当時を振り返って、こう感謝する。
「叔父さんもそう言いながら、心は痛かったと思います。本当は寮まで行って、何が起こっているかを知りたかったと思うんです。でも叔父さんは来なかった。それは僕のこれからにとって良くないことだと考えたからでしょう」
叔父の言葉を噛みしめた。
頑張ってみよう、乗り越えてみよう。
次第に環境になれ、育成組織のなかでも頭角を現していく。うまくなっていると実感を持つことで、トレーニングにより集中することができた。
シーズンオフになって、ブラジリアに戻った。
しかしマルコスは1週間休んだだけで、アレッシャンドレさんの指導を受けることになる。いや、それが何よりのオフの楽しみであったのかもしれない。
「きょうは左足だけ使おうとか、クロス中心とか、叔父さんのつくったプログラムどおりに練習しました。僕も練習が好きなのでとても有難かった」
オフに1週間だけ休んですぐ自主トレ。これは毎年の恒例となっていく。
文字どおりサッカーに明け暮れる日々。
その甲斐あって19歳のときにフルミネンセのトップチームに昇格する。デビュー戦ではファーストタッチでゴールを奪った。活躍を続けて、一気にブレイクのときを迎えようとしていた。
ブラジルU-18代表に続いて、U-20代表にも選ばれた。サラリーもはね上がった。順風満帆、それこそが落とし穴だった。
ローンでマンションを購入し、練習が終わったら遊びにオカネを使った。暴飲暴食も始まった。13年シーズン、マルコスは暗闇に突っ込んでいった。
「あの年は最悪な自分でした。ケガをしているのにお酒を飲んだり、夜遊びしたり、朝までゲームしたり……昼夜が逆転していました。若くしてオカネを稼いで、完全に勘違いしていました。〝一日一日を楽しめばいいじゃないか〟って、そんな感じで。そういう生活があって、9回もケガを繰り返しました」
リオで母親と一緒に暮らしたが、〝稼ぎ頭〟となった息子には何も言うことができなかった。今振り返れば、母の心痛も十分すぎるほど理解できる。
どん底まで落ちた
気がつけば散財の限りを尽くしてマンションのローンを払えず、家を出ていくしかなかった。車も手放した。リオの住宅街から、郊外の田舎にあるのちに妻となるダイアニさんの祖母の家へ転がり込まなくてはならなかった。
ハッと目が覚めた。
マルコスは言った。
「確か15年のはじまりでした。〝俺〟何やってんだ〟って気づいたんです。何も残ってないし、むしろマイナスになっていることに。自分を見つめ直しました。練習はしっかりやっているのに、なぜうまくいかないのか、と。ピッチ内だけじゃなく、ピッチ外もプライベートもしっかりやっていく必要があるんだとあらためて思いました。このままだとせっかく今まで努力したことが無駄になってしまう、もったいないじゃないかって。そこから生活を変えていきました」
トレーニングだけしっかりやればいいだろ。
その甘い考えを捨て去った。暴飲暴食もお酒も夜遊びもすべてやめた。練習後はケアに時間を掛け、栄養と睡眠に最大限の注意を払った。最愛のダイアニと結婚し、赤ちゃんができたことも励みになった。
プレーにはっきりとキレが戻った。ケガもしなくなった。
叔父のアレッシャンドレさんには、不摂生の日々のことを伝えていない。そのことも「苦しかった」という。
「もしダメな自分のときに叔父さんが近くにいてくれたら、こういうことは起こらなかったかもしれない」
マルコスは静かな口調でそう振り返る。しかしながら、叔父との大切な日々があったからこそ、彼は間違いに気づいて立ち直ることができたのだった。うまくなるためには、人間的にもしっかりしなきゃいけない。その教えが己のマインドに染み込んでいるからこそ、もう一度前に進めたのだった。
「本当のプロになったとのは2015年からだと、僕ははっきり言える」
復調を果たしたマルコスに、運命のオファーが舞い込む。「ドラゴンボール」で知っていた日本からのオファー。家族、妻、そして叔父に相談して、横浜に行くことを決めた。
ブラジル国内のメディアによれば、フルミネンセでは給料未払いの問題が指摘されていた。マルコスがその話題に言及を避けるのは、愛するクラブを傷つけたくないからなのかもしれない。「サッカー以外のことまでいろいろと考えなくてはいけなかった」とだけ述べた。
F・マリノスでゴールを重ね、「かめはめ波」でスタンドを沸かす。
まさに水を得た魚のようである。
「自分のキャリアのなかでF・マリノスに来たことが、一番いい判断だったと思っています。日本の生活に馴染むのも早かった。サポーターからも愛されていると感じるし、だからこそやり甲斐もある。そして何よりピッチ外の心配をしなくていい。強度の高いトレーニングをして、試合で最大限のパフィーマンスを出す。サッカーだけ集中すればいいのだから、これほど有難いことはない。このクラブのためにタイトルを獲って、歴史をつくっていきたい。それが今の私の願いです」
自宅はケア用品やトレーニング器具で溢れているという。オフでも体を動かし、摂生を忘れない。日本語の習得にも積極的で、スタッフも「ああ見えてかなり真面目」と口をそろえる。アレッシャンドレさんからもちょくちょく連絡が入るとか。
師匠から授かったサッカーへの姿勢。
叔父さん、見てくれているかい?
あの力の入った「かめはめ波」はきっと日本から地球の裏側へと向かっている――。
二宮寿朗Toshio Ninomiya
1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載