まりびと

まりびと まりびと
まりびと 松原 健選手

現実を受け入れるまでに、時間が掛かった。あの日埼玉スタジアムのピッチにいた誰よりもきっと……。

2018年10月27日、YBCルヴァンカップ決勝。湘南ベルマーレとの〝神奈川ダービー〟に敗れた後、松原健はその場からしばらく動くことができなかった。遠くからは、彼の背中が震えているようにも見えた。

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©J.LEAGUE PHOTOS


取材エリアではメディアの呼び掛けに応じず、顔を下げて無言で通り過ぎた。いつも真摯に応対してきた彼だけに、珍しい光景でもあった。現実を受け入れなければならないそのもどかしさと、試合が終わっても彼はずっと戦っていた。

2019年1月、石垣島キャンプ。
3カ月前の悔しさは、今なお新鮮なまま心にあった。

「あの悔しさを言葉でどう表現していいかは分からない。去年で言えば、元日に天皇杯決勝で敗れて(セレッソ大阪に1-2)僕にとってはF・マリノスに来て2度目の決勝の舞台でした。それがまた準優勝に終わって……試合後の気持ちではっきりと覚えているのは、とにかく(移動の)バスに乗りたかったということ。でもここで獲れなかったことで、タイトルに対する思いというのは強くなっていると思います」

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声のトーンを落とす一方で、視線を尖らせる彼がいた。

横浜にやってきたのは、2年前の2017年シーズン。オファーを受け、3年間過ごしたアルビレックス新潟を離れる決断を下したのは明確な目標があったからだ。

「僕が持っているF・マリノスのイメージは勝つことが当たり前の強豪。タイトルを獲りたい、どうしても獲りたいという思いがありました」

それまで横浜には不動の右サイドバック、小林祐三がいた。小林の契約満了に伴い加入した松原の背中にはプレッシャーものしかかっていた。

「小林さんはこのクラブで圧倒的な存在感を放っていたし、当然、比較されることは正直怖かったところもあります。でも考えたってどうしようもないじゃないですか。自分らしいプレーをしていこうって、負けないようにしようって」

目に見えない「圧倒的な存在感」と戦っていく難しさ。だからこそ生半可な気持ちで、飛び込んできたわけではない。

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タイトルを獲る覚悟、小林に負けない存在感を持つ覚悟。
何故、ひるむことなく一歩前に踏み出してその覚悟を固めることができたのか。苦しい経験が、松原の背中をグッと押していた。

地元の大分トリニータから新潟に移籍した2014年。伸び盛りの21歳は180㎝の恵まれた体格、走力を活かしてレギュラーの座を勝ち取り、同年9月には日本代表に初招集されている。ブラジルワールドカップ後に就任したハビエル・アギーレ監督の初陣メンバーに呼ばれたのだ。

招集は続いたが、出番は訪れなかった。
11月の親善試合ホンジュラス戦は慢性的なひざ痛を抱えていた内田篤人が代表に復帰して90分間フル出場を果たしたことがトピックになった。結果は6-0。同じポジションの松原は内田から学ぼうとプレーを目に焼きつける一方で、大差の展開でもお呼びが掛からない現実を重く受け止めた。

「A代表に入れたことでモチベーションは上がったし、トレーニングでも自分のギアが上がっているなっていう実感がありました。いい刺激の連続でした。でも篤人さんがテーピングを巻いてプレーしているなか、大差になっても自分は代わって出られないんだ、と。自分の実力不足を思い知らされたし、A代表の実力ではないんだと思いました」

代表デビューに至らないその現実。
発奮の一つの材料としたリオデジャネイロ五輪候補生は、より一層ギアを上げていく。

だが――。
翌春、右ひざ外側半月板損傷の大ケガを負ってしまう。

人生初の手術に踏み切った。懸命にリハビリし、体幹トレーニング、筋力トレーニングとやれることはすべてやった。10月の天皇杯で復帰し、16年1月のAFC U-23選手権(リオ五輪アジア最終予選)に間に合わせた。しかし患部の違和感は消えず、自身が思い描くパフォーマンスからは程遠い。ひざが曲がらず、屈伸もできなかった。出場したのはグループリーグのサウジアラビア戦のみ。ここを目標に合わせてきたのに、頑張ってきたのに、ひざの痛みが消えない現実に歯ぎしりするほどの悔しさが襲った。

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©SOCCER DIGEST


「最初のオペで全治5カ月のケガをきっちり治して万全な状態でピッチに戻ろうと思って、凄く頑張ったとは思います。でも手術したからといって、すぐに痛みが取れるわけではなくて復帰して2週間後の(天皇杯の)徳島ヴォルティス戦では全然動けなくて、前半で交代してしまって……。ひざの状態があまり良くなくて、そこからはだましだましでしたね。最終予選に手倉森(誠)監督に呼んでもらって何とか頑張ろうとはしたんですけど、思うようにプレーできなかったことは本当に悔しかったですね」

カタールから帰国後、彼は再手術に踏み切る。本大会を目指すことに、あきらめはない。意地で間に合わせてラストチャンスとなった6月の親善試合南アフリカ戦には後半から出場する。本大会メンバーを勝ち取ることはできなかった。だが、やれることをやり切ったうえでの落選に「これも運命」と悔しい気持ちを越えて受け止めることができた。

ケガが彼を強くしたのではない。リオに行く。その覚悟こそが松原健を強くした。リオ五輪のシーズンを終え、新しい覚悟を求めたのは自然の流れだったのかもしれない。

支えてくれているのが、F・マリノス1年目に入籍した愛妻だ。「高校時代からお付き合いしていた」同級生で、ケガとの戦いにおいてふさぎ込みそうになったときも常に寄り添ってくれた。

「あれから大きいケガはしていません。奥さんは食生活でも凄く気を遣ってくれています。夜ごはんはいつも6品ぐらいおかずを出してくれて、栄養のバランスがいいということもケガ防止につながっているのかなって思いますね」

移籍初年度は26試合、2年目の昨シーズンは29試合に出場した。昨年はアンジェ・ポステコグルー監督が掲げる攻撃サッカーのもと、これまでとは違う役割を求められている。

「今まで持っていたサイドバックの概念が覆されたというか、内側に入ってボランチの位置でボールを受けたり、さばいたりしなければなりませんから。状況によってはフォワードの位置までいくことも必要になる」

欠かさないことは、試合後の映像チェックだ。次の試合に向けた練習が始まるまでに、自宅で映像を見て自分のプレーを確かめる作業である。

「いいプレーができなかったり、失点に絡んだときの映像は正直、見たくないですよ。でも見なければ、何が悪かったのかが分からない。ピッチのなかで自分の目で見ている映像と、外からの映像ではやっぱり違うので。ボランチの位置に入ってあと2歩動いていたら前でターンできていたのにとか、ボールをもらう前にここで1回、首を振っていけば空いていたこのスペースが見えていたのに、とかそういう次への課題が見えてくる」

いろいろと考えてしまう性格なのかもしれない。だから逆に、敢えて考えないようにも意識する。詰め込みすぎは危険とばかりに、プライベートではなるべくサッカーを考えないようにしている。決まって毎週録画しているのは、自動車レースのスーパーGT。サッカーを一度、頭から切り離すためのルーティンにもなっている。

考えて、一方でもっと感性で。
それが活きたのが、ここまで2度ある得点シーン。
待望のJ初ゴールが、2017年5月27日のアウェー、清水エスパルス戦だった。相手ゴール前でクリアされたボールを拾い、切り返しての左足シュートでゴールに蹴り込んだ。昨シーズンは8月15日のホーム、名古屋グランパス戦。リスタートからドリブルで持ち上がり、豪快なミドルシュートを突き刺している。いずれも〝スーパーゴール〟だ。

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「僕の場合、考え過ぎると体が動かなくなるんです。エスパルス戦はトラップするときに相手が見えて、かわして打ったらどうなるかなと思ったら、入っちゃったなという感覚でした。昨年のグランパス戦については、まったく狙っていませんでした。中は固められていて、自分が外なので(味方の)オーバーラップもない。ゴールキーパーの前にクロスを送ろうとも思ったけど、意外と相手が寄せてこなかった。だったら中途半端に上げるよりは、打ってしまおうって。コースも狙っていなかったし、シュートをふかさないように枠に飛ばすことだけを考えましたね」

チームが残留争いに巻き込まれても、逆に考え込まないようにした。新しいサッカーにチャレンジしているのだから、試行錯誤は当たり前。そうやって前向きに取り組むことを、1シーズン通して貫いた。信じてやり抜いていけば、何かしらの成果が待っているはず。ルヴァンカップで優勝を逃がしたことを、彼があれほど悔しがったのも頷ける。

移籍3年目、石垣島キャンプでは黙々とコンディションを上げていく彼がいた。

「自分のポジションは走らなきゃ始まらないので。長い距離も、スプリントも、もっとやんなくちゃいけないですから」

背番号を変更するチームメイトもいるなかで、トリニータの2種登録時代から付けている「27」を今シーズンも背負う。

「たまに、ほかの番号もいいなって思いますけど、ここまできたら27番を貫こうかなとも考えています。サインでも慣れて随分と書きやすくなっていますし(笑)」

置き忘れているタイトルへの思いは、口に出さなくても伝わってくる。

そして、口に出した〝もう一つの覚悟〟がある。

「いいプレーを続けて、いい判断を続けて、絶対的な存在にならなきゃいけないって、そう思っています」

絶対的な存在に。
覚悟があるから、もっと強くなる、もっと成長できる。
覚悟があるから、松原健は走り抜くことができる。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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