まりびと

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トップチーム コーチ 松橋 力蔵

 いつも走っている。
練習後に黙々と、淡々と。選手時代からずっと、30年間ずっと……。

 「若い選手に一緒に走ろうって声を掛けるんですけど、なかなか付き合ってくれないんですよ」

 トップチームの松橋力蔵コーチは、そう言って苦笑いを浮かべる。今年8月に50歳を迎える。選手から「リキさん」と親しみを込めて呼ばれるその人は指導者として育成畑を歩み、ユース監督として名を馳せてきた。高円宮杯全日本ユース(2009年)、Jユースカップ(2010年)、全日本クラブユース(2013年、2015年)など幾つものタイトルを獲得するとともに、監督、コーチ時代に指導した喜田拓也、天野純、遠藤渓太、和田昌士らはじめ、多くの選手がトップチームに名を連ねている。そして松橋は多くの選手から信頼され、慕われている。
「言葉よりも行動」がモットー。
〝人に課す〟なら〝自分もやらなきゃ〟という性分。自分に問い掛け、自分を見つめる時間ともするため、彼は走ることを続けてきた――。

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 もう40年以上も前になる。

 サッカーとの出会いは、運命的だった。小学2年生の頃、8月の誕生日に父親からプレゼントされたのは巨人軍のユニホーム。しかし、野球をやってほしいとの父の願いはかなわず、関心を覚えることもなかった。
その数カ月後、通りかかったグラウンドで見ず知らずの人たちがサッカーをやっていた。なぜだか気になって、朝礼台に座って見ることにした。

 「君もやってみるかい?」

 声を掛けられて、やってみた。楽しくて、面白くて。サッカーの世界の扉を開けた瞬間だった。まだJリーグもない時代、いつしか「プロのサッカー選手になる」と心に決めた。

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 進学した千葉の強豪・市原緑高では、高校サッカー界の名将・本田裕一郎監督(現、流経大柏サッカー部監督)の指導を受け、攻撃的なミッドフィルダーとして成長を遂げていく。サッカー漬けの青春時代だった。
卒業後、JSL(日本サッカーリーグ)に属するチームのテストを受けたものの、失敗に終わった。松橋は実業団の道を断念し、とあるスポーツクラブに入社する。ところが実は「会社の代表の方」が、小2のときにグラウンドで声を掛けてくれたあの〝恩人〟だったのだ。力蔵という珍しい名前だったので、先方が気づいてくれた。
松橋はスポーツの業務に携わる喜びを感じながらも、プロのサッカー選手になるという目標に向かわない自分に苛立つようになっていた。

 プロになる目標から逃げていいのか。

 あるとき、日産ファームがセレクションを行うことを知り、一大決心をする。文字通り、ファームチームの募集ではあるものの、そこからトップチームに昇格できる可能性があった。セレクションに合格すると、会社を辞めてアルバイトをしながらプロを目指す日々が始まった。

 日産との出会いも、また運命的だったと言えるのかもしれない。

 「何となくですけど、カラー的に自分は日産が合うんじゃないかと思っていました。東京の流通センターで夕方までアルバイトをやってから、夜、新子安のグラウンドで練習をするという生活。僕の1つ上の先輩がファームからトップに上がったという記事もあって、自分もそうなりたいって」

 意外にもチャンスはすぐに訪れる。日産ファームに加入して数カ月後、トップチームとの練習試合が設定された。「ここに懸ける思い」で試合開始から全力をぶつけた。
 前半が終わって引き上げると、坂木嘉和監督(現、日本工学院F・マリノスTD)に呼び止められた。

 「力蔵、加茂(周)監督がお前のことを気に掛けているぞ」

 気持ちのスイッチがさらに入ったが、後半はあまりに気負いすぎて自分のプレーができなかった。試合後、監督室に呼ばれ、加茂からこう告げられる。

 「日産の寮に入って、ここ(獅子ヶ谷)でサッカーやれるか?」

 天にも昇る思いだった。アルバイト先にも、親にも報告、相談せずに、「よろしくお願いいたします!」と頭を下げた。ファームとトップを両立する、高校時代以上のサッカー漬け。そして1989年、正式に日産自動車サッカー部の一員となった。
いつしか〝木村和司2世〟と呼ばれ、注目を集めるようになった。中盤のタレントがひしめくなか、オスカー監督時代になってようやく出場機会を増やしていくことになる。そして清水秀彦監督時代の1991年~92年のアジアカップウィナーズカップでは優勝に大きく貢献する活躍を見せる。

 1993年にはJリーグが開幕し、プロのサッカー選手となった。子供の頃、抱いた目標がかなった瞬間。だがその後、後輩たちの台頭によって出場は限られ、96年にオスカー監督が指揮する京都パープルサンガに移籍。そして98年からJFLのジヤトコに移り、4シーズン過ごして現役を引退する。33歳のときだった。セカンドキャリアは指導者になると決めていた。

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 「オフは隣の清水市に行ってライセンスの講座を受けるなど(引退後の)準備はやっておきました。ジヤトコは社員の選手に加えて、自分たちのような(プロ契約の)選手も入って、より強くなっていこうとしていました」

 松橋は引退後、チームに残ってコーチに就任する。しかし03年を持って、ジヤトコサッカー部は解散の憂き目にあう。松橋は2つの選択に迫られていた。

 救済策として一社員として働く道もあった。収入の安定を考えるなら社員となる選択もあったが、育成年代の指導者を探していた古巣が手を差し伸べてくれた。8年ぶりに、チームに戻ることになった。これもまた運命がいざなった道なのかもしれない。

 04年にジュニアユースU-13コーチから始まり、ユース、トップチームのコーチを務めた後に09年から13年までユース監督の座に就く。S級ライセンス取得のため一度コーチに戻り、そして再びユース監督として指揮を執った15年からの2年間、その間、F・マリノスユースはいくつものタイトルを獲得することになる。そして、その指導力は、クラブから高い評価を受けた。

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 松橋力蔵の指導哲学とは?

 そう問うと、誠実な人は困った顔をした。
「いや、自分のなかでは確固たる何かがあるわけじゃないんです。選手の良さをどうやったら引き出せるか、そればかりを考えていますし、そのときどきでも(指導法が)違ったりしますから。
 何か言えるとしたら〝全力で真摯に向き合う〟ですかね。選手たちに要求する以上、自分にも課していかないといけない。やれている選手は、自分と向き合って、きちんとした生活を送っています。そういったことも含め、選手から学ぶことのほうが多かった」

 松橋が選手たちに良く言ってきた言葉がある。

 それは「練習の景色を変えていこう」。

 もっと妥協なく、もっと目の色を変えて。選手へ要求するのと同時に、指導者が率先して妥協なく、目の色を変えて指導する。そして練習が終わった後に、走りながら自分自身と向き合っていく。この作業をずっと繰り返して、信頼と敬慕を得てきた。
ノウハウはない、選手を伸ばすことを考えて一生懸命やるだけ――。

 決して華やかな現役生活だったわけではなかった。いや、苦しい時代のほうが長かった。だからこそ、分かったこともたくさんある。今を精いっぱいやっていれば、いつも運命が自分の進むべき道を指し示してくれる。ただ、運命は偶然にはやって来ない。一生懸命でなければ、それは振り向いてくれない。松橋は言う。

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 「理想と現実ってあるじゃないですか。そのバランスと言いますか、僕はいつもその真ん中にいるような気がするんです」

 理想を見ることも、現実を知ることも大事。その中間に身を置くことが、サッカーに対する純粋を生むと信じてきた。松橋の人生訓とでも言えるだろうか。
 今も、若い選手の苦悩が伝わってくることはよくある。しかし必要以上に介入することはしない。「自分が見つけた答えが本当の答え」と分かっているから。〝教える〟よりも〝促す〟スタンスに立つ。自問自答が、何よりの肥やしになるのだ、と。

 「自分もトップでのコーチ2年目ですけど、まだまだ。今、置かれている環境できちっとやれるように、日々、一生懸命やっていくしかないと思っています」

悩み、向き合い、走る。
彼もまた、本当の答えを探そうと必死にもがいている。
選手に課すなら、自分にも。
純粋が、松橋力蔵を走らせている。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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