まりびと

まりびと まりびと
まりびと チアゴ マルチンス

地上を見ろ! チーターだ! スポーツカーだ! 仲川輝人だ! いや違う。
チアゴだ! チアゴ マルチンスだ!

ハイラインの背後に出されたボールに、爆発的なスピードで追いつく。矢のごとく、風のごとくピンチの芽を摘み、ゴールに鍵を掛けてしまう。
速く、強く、タフ。
驚異的な身体能力の持ち主は、昨年8月にF・マリノスのユニフォームに袖を通して以降、すぐさまハマの最終ラインにとって欠かせないザゲイロとなった。

24歳、まだまだ伸び盛り。
7月27日、日産スタジアムで開催されたマンチェスター・シティとのユーロジャパンカップでは、名だたる世界のアタッカーたちと互角に渡り合った。彼はこの横浜で、類まれな才をワールドクラスまで引き上げていることを証明した。

爆発的かつ驚異的。
才だけで、花は開かない。内に秘める思いと嘘のない日々の取り組みがあるからこそ、パフォーマンスに輝きが伴う。そのチアゴの知られざる信念――。

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アスリートになるのは、定められた運命であった。

チアゴは1995年3月17日、ブラジルのミナスジェライス州で生を受けた。父デニスさんはGKでプロキャリアを持ち、バレーボールでも活躍したスポーツマン。母ダニエラさんもバレーボール、水泳を得意とするスポーツウーマン。2人とも体育教師になり、チアゴにとってスポーツは小さいころからの日常であった。

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「鬼ごっこや公園で自転車に乗って遊ぶとか子供らしいこともやったけど、姉を含めて家族で一緒に過ごすことが多かった。親にいろいろと連れていかれて、スポーツが身近にあった。やったのはハンドボール、柔道、バスケットボール、陸上、フットサル……そしてサッカー。自分も将来、アスリートになるんだろうなっていう思いは漠然とあったと思います。どのスポーツをやっても、器用にこなせていました。そのところは父親によく似ていると言われましたね」

足は速く、器用で、熱心。どの競技からも引っ張りダコで、チアゴ少年も一つに絞ることなくどのスポーツも楽しんだ。両親の影響であった。

決断のときは突然にやってきた。

12歳のある日、サンパウロで開催されるサッカーのテストとハンドボールの試合が重なったのだ。テストはその日しかなく、逆にハンドボールの試合は2週続けて行われることになっていた。ハンドボールのコーチに「今週はサッカーに行って、来週は試合に出ます」と伝えたら、「今週来ないなら来週も来なくていい」と返されてしまったのだ。

「コーチから『お前の力が必要だ。絶対に来てくれ』と言われていました。でも行かないと、次もないというのでなおさら悩みました。どうすればいいか父に相談したら『お前自身はどうしたいんだ? 将来の道を決めたいのか?』と聞かれ、将来につながるキャリアを選びたいという思いに至ったんです」

俺が生きる道はサッカー。心に決めた瞬間でもあった。
ハンドボールのみならず、取り組んでいた他のスポーツもすべてやめてサッカー1本に絞ることにした。父の影響でGKからスタートしたものの、ザゲイロで勝負したいという気持ちも強くなった。

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15歳になる直前、チアゴは故郷を離れてサンパウロ州のモジミリンECというクラブに入団を果たす。「その後の自分を形成する」のに大きく影響を及ぼす決断となった。

ハングリーな環境であった。寮生活と言ってもホームスタジアムの中にある簡易的な施設。親元にいたころの生活とは一変した。夜は、昼に仕事をしている社会人に混じって夜間学校にも通った。

「父はこの環境を知っていましたが、母には知らせていなかった。というのも母が知ったら反対されただろうし、連れ帰されるんじゃないかなって思ったからです。だから厳しい環境のことは伝えなかった。もちろん周りに知った人はいない。15歳から17歳の多感な時期で学校には大人がいっぱいいて、他の世界があることも知る。でも、僕はこのサッカーの世界で生き抜いていこうという強い気持ちがあった。精神的にも非常に大きくなれた時期でした」

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くじけそうになっても、父のアドバイスが役に立ったという。親子というよりも、それはコーチと選手の関係に似ていたとチアゴは明かす。

「あきらめるな」「ミスをしたら、正しく直せばいい」「常に向上することを考えろ」

一つひとつの言葉が胸に響いた。3年間、真摯にサッカーと勉学に取り組み、心身ともに成長したチアゴは2013年10月、18歳でついにサンパウロ州のビッグクラブの一角であるパルメイラスとの契約を勝ち取ったのだった。
実は、モジミリンで運命の出会いがあった。のちに妻となるビアンカさんと知り合ったのだ。

「彼女はハンドボールの選手でした。町を代表して戦うスポーツの大会があって、そこで知り合いました。その後、仲良くなっていってお付き合いするようになったんです」

パルメイラスに入団しただけで満足はできない。試合に出られなかったら意味がないからだ。チアゴは入団して約2カ月でプロデビューを飾った。しかし翌年、右ひざを痛めてチームから離れなければならなかった。支えてくれたのが両親とビアンカさんだった。

「サンパウロで一人暮らしをして、治療とリハビリの毎日を孤独に送っていました。週末に親が来てくれて世話をしてくれて、彼女もバスに乗って会いに来てくれました」

復帰してからはパイサンドゥへの武者修行を経て16年にパルメイラスに復帰すると主力として全国選手権優勝を果たすことになる。

明るい希望の光が差し込んだかに見えた。しかし翌17年3月、左ひざ前十字じん帯損傷の大ケガを負い、手術を余儀なくされたのだ。ここでもビアンカさんの援護射撃を受けることになる。

「"アスリートが活躍したら、裏では誰かがサポートしてくれている"という表現をよく聞きます。でもビアンカは"裏"ではなく"隣"。苦しいとき、難しいときにまさに隣にいて支えてくれるんです。両親もそうですが、ビアンカには感謝の言葉しかありません。ケガというつらい時期を乗り越えられたからこそ成長できた。ライバルとの競争でも、闘い抜けるだけの力を蓄えることができました。あの時期があったから、今がある」

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チアゴは復帰後、期限付き移籍でパルメイラスを出るものの、18年に再び帰還を果たす。絶対的なレギュラーの座までは確保できないながらも、コパ・リベルタドーレスでの活躍など復調気配を示していた。

そんな折、F・マリノスへの期限付き移籍の話がチアゴの耳に届く。
初めての海外。それもブラジルと真裏にある日本。不安がないわけではなかった。
ビアンカさんに相談すると、笑顔で背中を押してくれた。

「せっかくのいい話。あなたの行くところに私はついていくだけ」

腹は固まった。日本で勝負する――。ビアンカさんがいるから、できた決断でもあった。2人はブラジルで結婚し、見知らぬ日本に一緒にやってきた。

2018年8月、横浜の地に到着すると20日のアウェー、鹿島アントラーズ戦でデビューを果たす。試合は0-1で敗れはしたものの、F・マリノスとのフィーリングの良さを感じ取ることができたという。

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「準備するにはわずかの時間しかなかった。チームのやり方に慣れていないし、鹿島という相手もレベルの高いチーム。それでも監督、チームメイトのサポートを受けてしっかり試合に入れたと思うし、まずまずやれたんじゃないかと感じた。これからもうまくやれるんじゃないかと手応えを感じるきっかけを得る試合になりました」

チームが抱えていたハイラインの背後の不安を消し去り、対人にも強いチアゴが守備の建て直しに一役買うことになる。日本の環境にも驚くほどのスピードで順応していった。

ここにも妻のアシストが隠されている。

「日本は文化も生活環境もブラジルとはまったく違う。それでもビアンカが生活や食事のことをしっかりサポートしてくれているのは本当にありがたい。ブラジルには両親、姉、友達もいるから、サッカーを離れたら仲間と過ごす時間がある。日本に来たことで彼らとの時間は使えないが、逆に言えばサッカーと妻にたっぷりと時間を使うことができる。幸いにもF・マリノスは監督、スタッフ、チームメイトから手助けをしてもらっている。サポーターも温かい。人間的にももっともっと成長できると僕は信じている」

ブラジルから応援してくれる両親のため、そして隣で支えてくれる妻のため――。
常に向上心を持ち、高いレベルを目標に置く。
彼がティーンエイジのころから、目指してきたのはブラジル代表の主将を務めたチアゴ シウバ(パリサンジェルマン)である。スピードも、対人の強さも、パスもザゲイロとして必要なスペックをすべて兼ねそろえている母国のスターだ。

「単にアイドルだったというのではないんです。僕にとって、選手としての指標となる存在」

追いつけ、追い越せ。
爆発的、驚異的なスピードと成長。

今日も明日も明後日も。チアゴはありったけの力でかっ飛ばす――。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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