マサシがいて、ケイタがいる。
ケイタがいて、マサシがいる。
お互いの実家は歩いて10分ほどの距離。小学校からの同級生はプライマリー、ジュニアユース、ユース、そしてトップ昇格まで経歴を同じくする。
「親友でもあるし、ライバルでもあるし……うーん、でもずっと一緒にいすぎて何かそういうのでもない。アイツのことを親友って言うと、それもちょっと気持ち悪いですから」
そう言ってマサシは苦笑いを浮かべた。
和田昌士、20歳。
J2レノファ山口での武者修行を終え、プロ3年目となる今季、横浜F・マリノスに帰還した。背番号は1年目の「14」から、「29」に変わった。かたや「ずっと一緒にいた」遠藤渓太は歴代の中心選手が背負ってきた「11」を担うことになった。
追いかけられるほうと追いかけるほう。その立場は逆転している。
小学生からトップ昇格まで、マサシはケイタの前をずっと走り続けていた。ケイタもマサシを追いかけていた。小学生からそんな2人が組めば最強だった。
「ケイタは、昔から足が速くて。真ん中の僕がスルーパスを出して、ケイタが裏に抜けてゴールになる。2人のコンビネーションで勝った試合は結構多かったと思います」
体が小さく、やんちゃなケイタと、体が大きく、おっとりタイプのマサシは何故か波長が合った。ケンカもしたが、2人を含めたサッカー仲間でずっと一緒にいることが当たり前になっていた。
ジュニアユースでも上の学年に飛び級で入るなど注目されるのはいつもマサシだった。憧れの中村俊輔に一歩でも近づけるよう「俊さんのロングキックを真似て、良く練習した」。中学からもうはっきりと、F・マリノスでプロになることを意識していた。
ユースに上がると、将来を有望視されるマサシの名前は世に広がるようになっていく。
高2の8月にはパートナーシップ契約を結ぶマンチェスター・シティU-18への短期留学生に選手としてただ一人選ばれ、翌年には2種登録でトップチームに参加。宮﨑キャンプに参加し、プレシーズンマッチでは先発出場も果たしている。
マサシは振り返る。
「あのときの自分は怖いもの知らず。トップチームの練習では自由に伸び伸びとやらせてもらって、いいプレーをして自信になったこともあった。自分のことは同世代で〝別格〟だと思っていました。だって〝別格〟じゃないと、その先のプロには進めないじゃないですか。ただケイタは高校に入ってから、もっともっとスピードが出てきて、自分も追い抜かれないようにしなきゃとは思っていました。ケイタには負けたくないって、それはずっと昔からあったものなんで」
追いかけてくるケイタのことはずっと意識していた。だが順調に階段を進んでいく過程で、知らず知らずのうちに壁にぶつかっていた。それは自分の内面という壁だった。
2015年6月、日本クラブユース選手権U-18関東予選で本大会行きを決めた試合。この日のマサシは動きが重く、プレーに精彩を欠いた。試合後のミーティング、マサシのプレーを不甲斐なく思った松橋力蔵監督からカミナリを落とされた。
「きょうのプレーは何だ。変わったのは髪型だけか!」
シティに留学して、トップに参加して、そんなものなのか。奮起を促す指揮官の叱咤が、肩を落としたマサシの耳には届いていなかった。
心の隙は、ケガにつながる。
足首を捻挫し、7月からの本大会に間に合わないと診断された。俺キャプテンなのに、何やってんだ。自分を責めるしかなかった。
見舞いに訪れた副キャプテンのケイタは言った。
「俺、得点王になってくるよ」
その宣言どおり、ケイタはグループリーグからバンバン点を取りまくった。自分がいない危機感を、ケイタは力に変えていた。不甲斐ない気持ちが膨らんだ。知らず知らずのうちに、あのときの松橋の言葉がスッと胸に入ってくるようになった。
「プレシーズンで出させてもらったりして、自分のなかでは調子に乗っているつもりはなかったんですけど、傍からはそう見えたんでしょうね。どこか浮かれて(プロでも)やれるじゃんみたいな自分がいたのは確かです。そういうのがあったからケガにもつながったと思いました」
マサシは必死になってケガを治そうとした。プールでのリハビリなど出来るものはすべてやろうとした。酸素カプセルにも入った。チームメイトもケイタも言葉には出さないが、一緒に戦うために勝ち進んでくれた。
間に合いたい、みんなと優勝したい。その思いが実り、準決勝のタイミングで合流できた。決勝では5点目のゴールを奪った。
「間に合わないと言われて、あきらめずに努力していたら、最後のご褒美じゃないですけどああやって1点を取ることができたし、優勝できた。日本一のチームのキャプテンにさせてもらったみんなには感謝しています。あきらめずにやれば、いいことがある。それを教わった試合でした」
ケイタは得点王とMVPを獲得したこの大会の活躍によって、一気に注目を集める存在になった。マサシにとっても、人生訓を得たターニングポイントになった。今でも「心に残る試合は?」と聞かれたら、迷わずこの試合を挙げることにしている。肝に銘じる「停滞は後退」という言葉も、松橋から高校時代に教わったものだ。この試合がなければ、今のマサシはなかったかもしれない。
2016年、マサシとケイタは一緒にプロになった。
「そりゃうれしいですよ。でもまた競い合わなきゃという気持ちになりました」
程なくして、ケイタが自分の前に出ていく。3月12日のアルビレックス新潟戦で先発デビュー。以降、切れ味鋭いドリブルで出場機会を増やしていく。一方、ユーティリティーな攻撃特性を誇るマサシは3月23日のYBCルヴァンカップ、川崎フロンターレ戦でデビューしながらも、リーグ戦初出場は10月まで待たなければならなかった。
リーグ戦はケイタの23試合出場に対し、マサシは1試合のみ。マサシは追いかけられるほうから、追いかけるほうに回った。
思った以上に、苦しみが伴った。
マサシは一度大きく息を吐いてから、言葉をつむいでいく。
「正直つらかったですね。周りからは(立場が)逆転したとか、和田は落ちぶれたみたいに言われるのが嫌でも耳に入ってくる。知り合いに『お前も頑張んなきゃな』って言われてしまう。そんなの分かってるよって反発したくなる気持ちもありました。でも僕とケイタを比べたがる周りの気持ちも分かります。今はこうやって言えますけど、1年目は受け入れられない自分がいました。正直、試合に出ているケイタを心から応援出来ない自分がいた時もあります。でも徐々に、受け入れられるようになっていきました。中学、高校のときはケイタがこういう悔しい思いをしていたんだなって。僕がシティに行っても、(U-16)代表に行っても、ケイタは行けなかった。だから今度は僕が悔しい思いをする番なんだと。落ち込んでいる場合じゃないって、徐々にそう思えるようになっていきました」
昨季、レノファではケガも重なって17試合の出場にとどまった。しかし終盤はベンチ外が続きながらも残り4試合はベンチメンバーに滑り込んでいる。ずっといいコンディションをキープして、日々の練習からアピールする。あきらめない気持ち、途切れない気持ちが起こした、マサシの意地だった。
山口からケイタのことはずっと眺めていた。U-20W杯に出場し、F・マリノスでもリーグ戦終盤に出場機会を増やしたことを嬉しく思った。連絡も「ちょくちょく」取り合っていた。
「アイツが頑張っていると、必然的に自分も頑張らなきゃいけないというか、負けちゃならないと思って……」
2018年、マサシとケイタの新しいストーリーが始まろうとしている。
「今の自分が置かれた状況がどうだとか、一喜一憂しても仕方がない。どうやったら試合に出られるのかを考えて練習していけば、必ず、必ずチャンスは来ると思っていますから。つらい思いもしてきたし、逆の意味でも怖いもの知らずになりました。何があったとしても落ち込まず、立て直せるのかなと思っています。ここからはい上がれるかどうかは、自分次第。ここから盛り返すことができたらストーリー的には面白くないですか?」
二宮寿朗Toshio Ninomiya
1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載