まりびと:水沼貴史&水沼宏太(後編)
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水沼貴史と水沼宏太。
父はクールに、息子はエネルギッシュに。
父は一筋に、息子はクラブを回って再び横浜F・マリノスに。
プレーも、生き方もまるで違う。
父は息子を「小さいときから認めている」と言い、息子は父を「ずっと憧れの存在」と語る。
親子ストーリーの後編は息子・水沼宏太の物語--。

Text by 二宮寿朗


 2020年11月14日、日産スタジアム。
 浦和レッズを迎えてのホーム最終戦となったこの日、水沼宏太は3アシストした後にオナイウ阿道とのワンツーから左足でゴールを挙げる。ユース時代の2007年11月24日、アルビレックス新潟戦でホームデビューを飾って以来、13年の時を経てホームゲームでマン・オブ・ザ・マッチ(MOM)の大活躍。視線の先には、マスコットのマリノス君が待ち受けていた。

 30歳は照れ臭そうに、感慨深そうに。5歳のときに父の〝引退試合〟に抱っこしてくれたマリノス君と今、一緒になって喜んでいることをちょっぴり不思議に思えた。
 思いのこもった一発だった。3アシストを含め、勝利にかかわったという実感を持つことができた。
「プロになってからの2年半、F・マリノスではゴールを決めることができなかったし、勝利に貢献できたと思ったことさえなかった。2020年にチームに戻ってきて、その2年半のことは通り越しちゃって、子供のころの思い出がよみがえってきました。マリノス君には一緒に写真を撮ってもらっていましたけど、応援したり、転がったりする姿を小さいときにずっと見ていたから、僕にとっては憧れのチームの憧れのキャラクター。ゴールを奪って一緒に喜べることができて、ここまで頑張ってきてよかったなって思いました」

 憧れのチームだった。
 まだ物心つかないころ母に連れられて、父・貴史の応援に向かった。マリノス君と初めて写真を撮った1995年7月、木村和司の引退試合で初めて父の手を握ってピッチに入場したあの日のこともおぼろげながら記憶に残っている。
「メチャクチャ緊張しましたよ。大人たちがいっぱい寄ってくるから、どうしようみたいな感じで(笑)。マリノス君も間近で見ると、顔がちょっと怖いなって。昔の写真を見てみると、僕の顔、ひきつっているんです」

 いつも観客席から眺めていたマリノスのユニフォームがとてもまぶしく見えた。憧れの眼差しはマリノスにも、父にも。そして物心ついた時には、家では暇さえあれば父の試合のビデオを観ていたという。
「マリノス時代よりJSLの日産時代のほうが圧倒的に多かったですね。ゴールシーン、アシストシーンは、もうテープが擦り切れるくらい。コーナーキックを左足でも右足でも同じように蹴っていたし、父さんは凄いなって。だから僕、アニメとか一切観ていないんですよ。学校に行っても、話題に全然ついていけない(笑)」
 引退してメディアでの仕事をメインにしていた父だが、家庭を一番に考えてくれていた。サッカーをするときはよく付き合ってくれたし、分かりやすく教えてくれた。
「少年団でみんなと一緒にサッカーをするときも入ってくれて。やっぱり周りがびっくりするほどうまいんで、誇らしかった記憶はありますね」
 周りから「あの子が水沼貴史の息子」と言われたところで、格段気にすることもなかった。

 だが、中学に上がって横浜F・マリノスのジュニアユースに入ると興味本位に見る周囲の目を感じるようになる。試合に出られないことも多く、なかなか活躍ができないもどかしさもあった。ユース昇格も危ぶまれていた。
「ユースがダメならサッカーを打ち込める高校に行こうかなとか、寮があるところのほうがいいなとか、そういうところまで考えていました。ギリギリで上がれたのは良かったんですけど、外から何となく言われている感じがありました。僕のなかでは見返してやるっていう思いが出てきました」
実力勝負の世界に「水沼貴史の息子」は関係ない。それでもゲタを履かせてもらっているんじゃないかと、意地悪な視線を感じたことはあった。それが何よりも悔しかった。
 普通なら反抗期と重なって、父を煙たく感じてもおかしくはない。遠ざけてしまうことだってあるだろう。だが宏太少年は違った。
「父さんのことは誇らしいし、大好き。何か言われるから嫌いになるなってことは一切なかったです。父さんが有名なら、自分も頑張って一緒に有名になればいいと思った。そう言っている人たちを見返してやるぞって」
 横浜F・マリノスでプロになるという明確な目標ができた。そのためには毎日の練習からすべてを注ぎこんで、「目の前の相手を倒す」と言い聞かせた。全力ファイトの礎は、このユース時代にあったのかもしれない。フォワードから中盤に移り、チャンスメークも新たな魅力になっていく。

 ユースの中心となって世代別の代表にも名を連ねるようになる。〝外野〟の声も、自然と消えていた。自分の実力で「見返した」実体験ともなった。

 高2の2006年、父はトップチームのコーチに就任する。8月からは岡田武史監督の辞任を受けて監督を任されることになった。巻き返しを託されて大きなプレッシャーにさらされていたものの、自宅では普段と同じだったという。
「でもそれはきっと家族に見せていなかっただけなのかもしれないですね。家族も今まで以上にチームを応援していました」  2007年シーズンになると父は再びコーチに戻る。シーズン前、トップチームの若手とユース数名で編成して香港に遠征することになった。そこに水沼も呼ばれ、初めて親子で遠征している。
 高3の夏には韓国でU-17ワールドカップにキャプテンとして出場。グループリーグ敗退に終わったものの、世界のレベルを肌で感じることができた。一つひとつの経験が水沼を成長させていた。U-17ワールドカップ後にはトップチームの練習に参加。父はコーチとして息子は2種登録の選手として、一緒の時間を過ごすようになる。だがちょっと気恥ずかしさもあった。
「高校の授業もあるので毎日参加していたわけじゃないですけど、〝何て呼んだらいいか問題〟があって、父さんというのは変だし、コーチというのもちょっと。貴史さんと言うのも違うなと。結局、話があるときは、ねえねえって言ってました(笑)」
 緊張気味の高校3年生の心をほぐしていたのが、〝ミスター・マリノス〟の松田直樹であった。松田はメンバーのなかで唯一、父と一緒にプレーした経験のある選手だ。
「マツさんは〝お前のお父さん、メチャクチャうまかったぞ〟とか〝お前とは全然タイプがちげえな〟とか言ってくれましたね」
 このときサブ組にいた松田と一緒に出場した練習試合で水沼はゴール、アシストをマークして大活躍。次の週、アウェーのヴァンフォーレ甲府戦(2007年10月27日)の遠征メンバーに呼ばれることになる。
「本当にびっくりしました。やばいかもって思いました。だって試合に出ているメンバーと合わせたことなんてほぼなかったし、みなさんと喋ってもない。前泊のホテルに入って、話をさせてもらったりしました」
 トップチーム昇格も決まった。「見返すために」必死にプロを目指してきたら、入団よりひと足早く遠征メンバー入りのチャンスまでつかむことができた。
 アップではコーチの父と一緒にボールを蹴った。サポーターからの応援も聞こえてくる。「夢じゃないのかな」って思うほど、足元がフワフワしている感覚があった。
 雨の小瀬、水沼は残り8分の時間帯で呼ばれた。17歳8カ月でのプロデビューだった。
「どんなプレーをしたかほとんど記憶ないんですよね。チャンスが来たらいいなと思っていたら一本、流れてきたんですけど打てなかった。でもプロってこんな感じなんだなって分かることができたのは自分のなかで大きかった」

 父と同じサッカー選手になる。一つの目標が手に届いたとはいえ、浮かれることなどなかった。父に負けないくらい有名になるには、これからが勝負になる。チームで絶対的な存在になって、いずれは日本代表にも入っていかないといけないのだ、と。

 ユースから昇格した2008年シーズン、トップチームは桑原隆監督が新たに就任し、父はチームを去ることになった。
 プロ1年目から活躍すべく精進を重ねたが、メンバーに入っても試合に絡んでいけない。18歳で10試合に出場したものの、まったく納得できなかった。木村浩吉監督、木村和司監督の体制になっても自分の序列が上がっていかない。20歳になっていたプロ3年目の2010年シーズン途中、J2に参戦して2年目の栃木SCに期限付き移籍することになる。
「監督が何度か交代して、そのたびにチャンスが来るかもって自分に言い聞かせていたし、F・マリノスで活躍したいという気持ちも強かった。でももうほかのクラブに行って試合に出たほうがいいと思いました。もし栃木でダメだったら、本当に終わりだと思って覚悟したことは覚えています。結果残せなかったら、終わりだぞって。J2は甘くないと思っていたし、知らないところに行く怖さも正直あったし、悔しさもあるし……。プライドみたいなものも全部捨てて、栃木に行きました」
 20歳にしてマックスの危機感。
 出場機会を増やして成長してまたF・マリノスに戻るという気持ちではなかった。栃木でダメだったら、俺は終わり--。その先のことなど考えていては、この壁は乗り越えられない。今まで以上にガムシャラに取り組んだ。
 コンスタントに試合に出るようになり、翌2011年シーズンは主力としてチームで最も多い37試合に出場。タフネスと守備に一気に磨きを掛けた。

「栃木の松田(浩)監督のサッカーは規律があって、守備を凄く大事にしていたので、たくさん学べた1年半にはなりました。試合に出ることでいろんな経験を積めました。それまでは自分のためにやれればいいやってところがあったんですけど、チームのために自分は何をやらなきゃいけないのかと考えさせられた。これは今の自分にとって凄く活きていると思います」
 すべてはチームのために。
 マインドが明確になったことも成長に拍車をかけ、彼は壁を乗り越えていく。一方であれだけ愛したF・マリノスには複雑な感情を持つようにもなっていた。
2011年11月16日、天皇杯3回戦。思い入れの深い三ツ沢で対戦し、0-3と完敗した。水沼は90分間フルに働いてチャンスもつくったが、ゴールをこじ開けることはできなかった。モヤモヤした感情が、水沼の心に渦巻いていた。
「違うユニフォームを着ている悔しさが凄くありました。確かに強かったんですけど、どうして負けなきゃいけないんだとか、ふざけんなって……」
 愛が深ければ深いほど、反動がある。自分のなかでF・マリノスという存在がこれほどまで大きいのかとあらためて認識させられていた。結局のところ、好きなのだ。

 栃木での期限付き移籍期間を終え、F・マリノスと2012年シーズンに向けて話し合うことになった。成長を手にした自負も、今度こそF・マリノスの力になれるという自信もあった。
 しかし、期待していた言葉はなかった。
 水沼はそのときのことを思い起こすと、次の言葉が出てくるまでに時間を要した。
「どっちでもいいって、そんな感じだったんです。少なくとも僕は〝お前は要らない〟って解釈しました。選手って、提示のされ方で自分の立ち位置って大体分かるんです。もちろんショックでしたよ。当時、事情の分からない人たちは〝クラブを捨てて出ていった〟とかそう見ている人もいましたけど、そんなんじゃない」
 俺はもう必要とされていない。
 海外挑戦に舵を切って欧州でテストを受けたものの、入団には至らなかった。八方ふさがりの状況で、待ってくれていたのがオファーを受けていたJ1初挑戦となるサガン鳥栖だった。
 昔、抱いていた感情が猛烈にぶり返した。
 見返したい!見返したい!!見返したい!!!
 積極的な仕掛け、無尽のタフネス、そしてチームへの献身によってユン ジョンファン監督の信頼を早々に勝ち取ることになる。
 3月24日、ホームにF・マリノスを迎えた。スコアレスで迎えた後半32分、右コーナーキックから味方のヘディングシュートが弾かれたところを左足で押し込んだ。
 自身のJ1初ゴールがサガンのJ1初勝利をもたらした。それも「見返したい」対象から。
「あの試合も、感情がちょっとたかぶっていましたね。きれいな形でのゴールではなかったけど、こんなにうれしいのかって言うくらいうれしかった」

 その後の活躍は言うまでもない。
 完全移籍に切り替わって、サガンの絶対的な存在となっていく。4シーズン過ごした後に、FC東京、そしてセレッソ大阪へ。ユン ジョンファン監督に再び重用され、2017年のルヴァンカップ、天皇杯制覇にも貢献した。
 2017年には結婚し、2019年シーズンにはJ1通算250試合を達成。日本代表にこそ届いていないが、父に負けないくらいのJリーガーになった。

 時間の経過とともに心境の変化があった。
「2度と戻らない」と誓っていた古巣への感情である。
「見返してやるっていう気持ちが段々薄れてきて、気づいたら負の感情みたいなものは何もなくなっていました。そんなときにオファーをもらったんです。まさか自分にと、想像したこともなかった。うれしさが心の底からこみ上げてきました。僕にとって本当に大好きでたまらないチームだったんだなって思いましたね」

 2020年シーズン、水沼は10年ぶりにF・マリノスに帰ってきた。背番号は「18」。〝エイトマン〟の父の背番号に、10年分の成長を乗せた番号であった。父に〝復帰〟を伝えると心から喜んでくれた。
 ベテランとして帰還した水沼は、2ケタのアシスト数をマークするなど強い存在感を示していく。その絶品すぎるクロスは、チームにとって欠かせない武器となる。
 エネルギッシュで熱が伝わってくるプレーは、テクニシャンでクールに魅せる父とはタイプが違う。ワンクラブマンの父とは歩む道も違う。
 父・水沼貴史は、どんな存在か――。
 そう尋ねると「憧れの人」と即答だった。
「あれだけ両足できれいに蹴れて、ドリブルもあれだけキレがあって、すごくうらやましいですよ。でも、僕は僕で積み上げてきたものがあるし、そこには自信がありますから。父さんに言われたことがあります。〝宏太らしくやれば、それは唯一無二だから。周りは気にしなくていい〟と。自分のプレーがどれだけチームに活かせることができるかにこだわってきたし、フォーカスしてやってきたつもりです。確かに父さんの経験と僕の経験はまったく違う。でもずっと憧れている気持ちは変わらないし、まだ超えたとも全然思っていない。これからも父さんを超えることを目指してやっていくことに変わりはありません」

 父に弱みを見せたことはない。だが、いつも見守ってくれていた。ちょっとした一言で救われたこともあった。年齢を重ねれば重ねるほど、父の偉大さがより分かってきた。2020年6月には第一子となる長女が誕生した。我が子への愛情を思うと、父から受けた愛情もより理解できた。
 あのレッズ戦でのゴールには後日談がある。父が「誇らしい」と言ってくれたのだ。自分の喜びと父の喜びが重なったことが何よりもうれしかった。
 水沼は言う。
「親子二代、同じチームで同じエンブレムをつけてゴールを決めるってなかなかないことだと思うんです。父さんも言ってくれましたけど、僕だって凄く誇らしいですよ」

 父に手を引かれて向かったあの最後の試合。父の手の感触はおぼろげに覚えている。
 見上げた父は輝いて見えた。
 憧れの人を追い掛けて。それはこれからもずっと--。

(終わり)