まりびと:森川晃&芝崎啓(前編)
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Text by 二宮寿朗


 横須賀市にあるトップチームの新拠点「F・Marinos Sports Park ~Tricolore Base Kurihama~」(以下、F・マリノススポーツパーク)がグランドオープンして1年が過ぎた。JR久里浜駅、京急久里浜駅を最寄りとし、約3.6ヘクタールの敷地を誇り、クラブハウスや2面の天然芝グラウンドなどが設置されているF・マリノススポーツパークにまつわる物語。当時、経営企画室で計画の遂行にあたった森川晃(現在は法人営業部長)が施設に込めた思いとは――。

 F・マリノススポーツパークの玄関口に、マリノス君の銅像がある。
 その視線はクラブハウスの玄関口からズレている。なぜかと言えば、ホームの日産スタジアムに顔を向けているから。銅像の高さは、灯台を模した土台からてっぺんまで199.3㎝。

つまりマリノス君が誕生したJリーグ開幕年に合わせている。細かすぎるこだわりを羅列するとキリがない。トップチームが練習するAピッチに足を運ぶと、スタンドの席にはランダムに赤色のシート、青色のシートがあることに気づく。不規則なトリコロール、何かと思いきや……。
「クラブの初ゴールがエバートン(1993年5月15日、東京・国立競技場でのヴェルディ川崎戦)。左45度から右足で巻いてのミドルシュートでしたよね。スタンドをゴールに見立てて1、100、500、1000、1500ゴールの決まったところを赤色に、その間の100ゴール単位を青色にしているんです。600、700はいずれも(奥)大介で、同じPKでほぼ同じコースに蹴っている。こうやって見ていくと面白くないですか? 実はクラブのメモリアルじゃないけど、木村和司さんと(中村)俊輔のJリーグ初ゴールも〝隠れシート〟になっているんですよ」

 声の主は施設の計画遂行にあたる経営企画室に当時、所属して陣頭指揮を執った森川晃、52歳。クラブに対する深い愛情を持ってF・マリノススポーツパークの完成に尽力したことがよく分かる。

 横須賀市がF・マリノスの練習拠点計画を公にしたのが2018年2月だった。法人営業部から経営企画室に異動してきた森川がクラブハウスやグラウンドを含めた施設の詳細について〝実行部隊〟の任を担うことになる。
「みなとみらいにあったマリノスタウン(2016年1月閉鎖)がどうだったかを参考にしながら、何が必要で何が必要じゃないかをまずは洗い出しました。たとえばクラブハウスに選手用の仮眠スペースがいるのかどうか。みなとみらいのときは一部の選手しか使わなかった。でも久里浜になると自宅からアクセスが遠くなる選手が多いので、あったほうがいい、と。主務の山崎慎とは膝を突き合わせながら一つひとつ詰めていきました。お風呂を広く、ロッカーを広くとやっていくと使えるスペースは決まっているので優先順位をつけていかなきゃいけないところはあるにせよ、基本的にトップチームからのリクエストにはすべて応えてあげたいという思いでしたね」
 選手たちからも直接要望を聞いた。雨でもボールが蹴れる場所があったほうがいいと、Aピッチ横、屋根のあるスペースに人工芝を敷いた。サウナの設置は長い現役生活での経験から疲労回復に良いという栗原勇蔵からのリクエストだったとか。メディカルルームの隣に低酸素ルームを置き、炭酸風呂、流水プールも設置。リラックスルームはできるだけ落ち着ける環境にと、壁をわざわざ木目調にしている。ミーティングルームは提携関係にあるマンチェスター・シティFCを真似て劇場型にした。
「マリノスタウンのことも分かっているので、日本一のクラブにふさわしいものを、と。このクラブで運営、広報、法人営業とやってきて、選手・スタッフとのつながりなど今までの自分のキャリアをここに活かせた部分はあるのかもしれません」

 森川は小学生のころから筋金入りの日産自動車サッカー部ファンであった。昔はまだセキュリティーが甘く、選手バスまで〝侵入〟しては憧れの木村和司にタッチしていた。
「和司さんの太もも、メチャメチャ太いんですよ。頑張ってと言いながら、太ももに触って〝スゲエ〟って声を上げていましたからね(笑)」
 高校、大学までサッカーを続け、卒業後は西鉄旅行に就職。サッカーをやっていたことを買われて日本サッカー協会(JFA)での仕事を任され、日本代表の海外遠征にも帯同するようになる。飛行機チケット、ホテル、交通手段の手配をはじめ、業務は多岐にわたった。裏方のスタッフとしてチームに関わり、1997年のフランスワールドカップ、アジア最終予選も陰から支えている。
「イラン代表に勝った初めてワールドカップを決めたジョホールバルでのアジア第3代表決定戦にも会場にいました。ゴール横に水を持っていったり、延長の前には円陣に入らせてもらったり……振り返ってみると本当にいい経験したなって思います」
 西鉄旅行時代にJリーグクラブのキャンプなどにも携わり、横浜F・マリノスとはAFCアジアチャンピオンズリーグ2004でのメディアツアーの提案をきっかけに、「日本代表の仕事で岡田(武史)監督と面識があるなら」と海外遠征をはじめチームの業務にも関わるようになる。F・マリノスとの結びつきが強くなっていく。

 そして元から大好きだったこのクラブに2006年11月に入社。35歳での転職だった。運営の正担当をいきなり任されることになった。
 森川が入ってから日産スタジアムのゲートに「再入場口」が設けられている。今でこそ常識だが、当時は画期的だった。同時期に誕生した場外飲食ブースやイベントブースであるトリコロールランドに人を増やす意味でも効果てきめんであった。
「一度スタジアムの中に入ったら、外のイベントに参加したくても参加できないという声はありましたし、人が多くなればイベント自体も盛り上がる。飲食にしたってそうです。Jリーグのクラブには再入場の仕組みが浸透していなくて、F・マリノスが初めてだったんじゃないですかね。外注に任せるんじゃなくて、みんなで知恵を出しあいながらやっていました。ほかのクラブに負けたくないという意識はあったし、F・マリノスってやっぱ凄いじゃんって思わせることを意識して仕事をやっていました」
 運営はファン・サポーターの対応という役割を担う。ここでもコミュニケーションを増やして、相互理解を深めようとしている。
「クラブとしてもファン・サポーターとしても、合言葉は〝スタジアムを満員にしよう〟でした。もし子供たちが怖がるようなことがあれば〝これじゃスタジアムが満員にならない〟とファン・サポーターに言えば、分かってくれる。ここが判断基準になっていました」
 忘れられない試合となったのが2010年12月4日、大宮アルディージャとのシーズン最終戦。松田直樹を筆頭に河合竜二、坂田大輔、山瀬功治、清水範久といった長年F・マリノスでプレーした選手が契約非更新となったことが明るみに出て、スタジアムは異様な雰囲気に包まれていた。

 チームを離れる選手たちが一人ひとり、ゴール裏でトラメガを持って挨拶をする流れはチームやクラブと相談したうえで森川がつくったものでもあった。選手の声を聞きたいとするファン・サポーターの要望に応えたいとの思いからだった。
「俺、マジでサッカー好きなんですよ。マジでもっとサッカーやりたい」
 あの松田の言葉は、ファン・サポーターの心にしっかりと届いた。森川もそう感じた。
 ただ、セレモニーが終わってからもクラブの判断に納得できないファン・サポーターの抗議は続いた。森川も必死に説得にあたった。長い、長い夜だった。

 森川は4年務めた運営を離れ、2011年から広報に。その後は法人営業、経営企画室とキャリアを重ねていく。いろんな経験が、F・マリノススポーツパークの様々なところに落とし込まれている。
 一例を挙げよう。
 マリノスタウン時代、クラブワールドカップでバルセロナがトレーニングで使用する際、クラブハウスに入る前にファンが接触できてしまうという施設の構造的な問題が指摘された。F・マリノスと練習試合をする相手チームも同様で、わざわざ警備員を配備しなくてはならない。スポーツパークではそうしなくていいように、一般の人と接触できないようなバスからの導線になっている。その他、Aピッチの観客席の位置を練習からクラブハウスに戻る選手の導線上に合わせることで、ファンサービスを効率的に実施できるようになっている。こういったところも一事が万事、細かく設定されているのだ。
 岡田イズムと言っていい。岡田が代表監督時代から「スタッフはどう動くか」を鍛えられ、それは自分の仕事のスタンスとして染みついた。
「F・マリノスの監督時代でも岡田さんはよく〝勝負の神様は細部に宿る〟と言ってたじゃないですか。僕も旅行会社のときに学ばせてもらいましたし、細部までしっかりやるよう意識しました。ACLの遠征で英語を使っていたら、岡田さんにイジられたこともありましたよ。スタッフを大切にしてくれた人でもあります」
 細部まで徹底するには、全体のことを把握しなければならない。だから森川はどの部署にいてもクラブ全体を眺めるクセがついている。
 現在は法人営業部に復帰して部長を務めている。横浜マリノス株式会社で働く喜びは入社したころと変わらないという。
「経営企画室は最終的に黒澤良二前社長以外では僕だけだったので、一人のやりやすさはありました。でも本来はみんなとワイワイ仕事をやっていくのが好きなタイプ。今は法人営業部でオフィシャルパートナー同士を結びつけるイベントをやってみようとか、部の仲間と一緒になってつくれているのがやっぱり楽しい。ただ昔は、マリノスタウンで社員も選手もスタッフもアカデミーもみんな一緒の場所にいてより一体感があったと思うんです。F・マリノススポーツパークで一つになれないのは残念ですけど、みんなで同じ方向を見ていきたい。

 F・マリノススポーツパークの入り口には、施設名が入った石の〝表札〟がある。マリノスタウンをモチーフにしたものだ。
「わざとこうしたんです。マリノスタウンを知っている選手は少なくとも気づいてほしいですけどね(笑)」
 トップチームと会社が別々の拠点であっても、マリノスファミリーが同じ方向を見る。そんな願いと想いが、細かい一つひとつにこめられている。