まりびと:森川晃&芝崎啓(後編)
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Text by 二宮寿朗


 横須賀市が2005年に横浜F・マリノスのホームタウンになって以降、密接な関係が続いていくなかで、トップチームの新拠点「F・Marinos Sports Park ~Tricolore Base Kurihama~」(以下、F・マリノススポーツパーク)が完成した。「公園のように開かれた場所」をコンセプトに、地域振興の中心となっていくことが期待されている、市とクラブの連携を強めていく役割を担うのが地域連携本部。横須賀市を担当する元フトゥーロ監督、芝崎啓の奔走ぶりを追う――。

 F・マリノススポーツパーク周辺はトリコロールで溢れている。
 JR久里浜駅を降りると、青、白、赤の三色に塗られた大きな自転車駐輪場が目に飛び込んでくる。F・マリノススポーツパークまで大人の足で徒歩10分ほど。電柱や路面に「300m」などとアクセスが示されていて、迷うことなく足を進めていける。トリコロールで装飾された消防団詰所を目印に曲がれば、F・マリノススポーツパークが見えてくる。ふと駐車していた車に目を向けると、マリノス君のイラストが入った横須賀市のナンバープレート。グランドオープンからはや1年が過ぎたが、久里浜はすっかりと〝F・マリノスの街〟になっていた、

「駐輪所、消防団詰所の塗装は、横須賀市が動いて実現してくれたんです。JR久里浜駅からの道が〝F・マリノス通り〟という名称になったりと行政から積極的にアプローチしてもらえるのはありがたい。久里浜商店会協同組合も同様です。共同開発で販売している『F・マリノスKURIHAMAカレー』も、商店会のほうからご提案いただいたものですから」
 声の主は、地域連携本部で横須賀市を担当する芝崎啓。2021年12月からこの業務に就き、シャレン!(社会連携活動)を推進していくべく地域との関係性を深めていく役割を担う。元々はスクールコーチ、ふれあいコーチ、フトゥーロ監督など務めてきたサッカー指導者。行政や商店会との折衝においても長年培ったコミュニケーション能力が活かされている。
「コーチをやってきたことでコミュニケーション能力はかなり上がったなと実感しています。子供から大人までかなりの多くの人たちにタッチしてきましたから。ただ、年配の店主の方に対しては硬すぎると距離を詰められないし、逆に柔らかすぎると壁をつくられてしまう。そのあたりは慣れるまでちょっと難しかったですかね。そういったことも肌感覚で分かってきて、みなさんといろいろとお話できています」

 F・マリノススポーツパークはその名のとおり「公園のように開かれた場所」をコンセプトにしている。トップチームの練習拠点であるとともに、地域振興の中心となっていくべき存在だ。
 その一環として昨年12月に開催されたのが「F・マリノスくりはまカップ」。久里浜周辺地域にある小学3年生以下の12チームが参加し、決勝トーナメントからはトップチームの練習グラウンドで試合ができるという点が最大の売りだった。
「ベスト4に残ったら、普段トップチームの選手が練習している天然芝グラウンドで試合ができるわけですから、子供たちもそうですが保護者の方にも凄く喜んでもらえました。子供たちのいい思い出になったと感じていますし、F・マリノスを身近に感じてもらえたんじゃないかって」

 チームの春季キャンプ期間を利用して今年1月には「食肉祭」なるイベントを実施。カットした牛の丸焼きの無料配布、キッチンカーの出店、地域団体のマルシェなどを企画して、多くの人が詰めかけた。地方創生応援税制(企業版ふるさと納税)による寄附金を原資にした、横須賀市の協力あってこそのイベントだった。
「反響が凄く大きくて、当日は多くのお客様に来ていただきました、我々の力だけであれば、ここまで出来なかったと思います。告知を含めて、横須賀市をはじめ多くの方々の協力があってこそインパクトのあるイベントになったかなと感じています」
 F・マリノススポーツパークの使用はトップチームとの兼ね合いでまだ限定的とはいえ、横須賀市とF・マリノスの交流という観点に立てば巡回スポーツ教室や、小学校を訪問してF・マリノスのスタッフになったつもりで施策を考えてもらうという「横浜F・マリノスプロジェクト」も増えている。一つひとつの施策の効果なのか、アンケートを取っても市民の認知度が上がっているという。ファン・サポーターの新規開拓につなげていくことができれば、より両者の関係が近づいていくことは言うまでもない。それが芝崎に課せられたミッションでもある。

 1987年生まれの芝崎は横浜フリューゲルスの育成組織出身だ。
 スクールに通っていた小学5年生のときにクラブ消滅という思いもよらない事態が起こった。ショックだった。
「朝起きたらお母さんに〝クラブがなくなる〟ってニュースに流れているって聞いて、一体どういうことなんだろうって。だって、クラブがなくなるなんて普通、考えないじゃないですか。トップチームもずっと応援していましたよ。好きだったのはジーニョ、セザール サンパイオ、エバイール、モネール、バウベル……あっ、ブラジル人選手ばっかり(笑)。最後の天皇杯で優勝したことはうれしかったですね」

写真(本人提供):横浜F・マリノスジュニアユース菅田のメンバーと同窓会。いつかのマリノスタウンにて

 クラブがなくなったことでフリューゲルスの流れを汲む「横浜F・マリノスジュニアユース菅田」に入り、芝崎はフォワードとして活躍。同期にはのちにトップ昇格する秋元陽太、奈良輪雄大らがいた。桐光学園、そして関東学院大学に進学してサッカーを続けていくものの、伸び悩みを感じてプロになる夢は断念。そんな折、大学がF・マリノスと提携関係にあったため、インターンでスクールを教える経験を持つことができた。職業としてやってみたい――。その思いを強くしたことで2010年に横浜マリノス株式会社に入社して、晴れてスクールコーチに。2012年からは「ふれあいサッカープロジェクト」のコーチとなる。1999年に活動をスタートさせた「ふれあい」は幼児からシニア世代までサッカーの楽しさ、体を動かす大切さを多くの人に伝えることを目的としたもので、芝崎にとって初の異動だった。
「スクールのコーチから、いずれはアカデミー、そしてトップチームのコーチに、という思いは最初ありました。でも自分はちょっと違うのかなって感じ始めていたので、ふれあいのほうを担当させてもらったんです。初めてサッカーをやる子供が多く、ボールを蹴る楽しさを伝えることにやり甲斐を覚えました」

 普及活動に仕事の醍醐味を感じると、今度は知的障がい者チーム「フトゥーロ」の監督になる。ここでの経験も大きかったという。
「フトゥーロの選手たちは本当に純粋にサッカーを楽しんでいたので、自分も凄く刺激を受けました。あるとき遠征で保護者の方たちと懇親会があったときに、『フトゥーロがあって良かった』『家のなかでゲームばかりしていたのが、サッカーに出会って生活が一気に変わった』などと言ってもらえて、みんな良かったと思ってもらえているんだと知って本当にうれしくなりました」
 30代なかばに差し掛かって自分の将来を考えたときに指導者とは違うキャリアを歩んでみたいとふと思うようになった。
 そしてサッカーの現場から離れ、ホームタウン業務へ。手にするのはボールやホイッスルではなく、資料の入ったカバン。デスクワークは慣れなかったが、周囲の協力もあって180度違う仕事に馴染むまでに時間は掛からなかった。


 来年は横須賀市がホームタウンとなって20周年を迎える。そのための企画を横須賀市と一緒になって検討している段階だ。
「いろいろとやってきたいと考えています。F・マリノススポーツパークでのイベントはもちろんのこと、地域の人々と接点をつくれるようなものになればいいかな、と。久里浜地域と同様に、横須賀のほかの地域をもっと巻き込んでいけるように。まだまだやることは多いんです」

 ピッチ外でF・マリノスファミリーの輪を広げていくことも普及活動に変わりない。
 芝崎は言う。
「このクラブは僕にいろんなことを与えてくれているし、力をつけさせてもらっています。フリューゲルスの育成組織のころからずっと縁があって、大切な場所。大好きなクラブのためにこれからもずっと働いていけたらなって思います」
 F・マリノスの〝横須賀ストーリー〟をつむぐため――。最大限のやり甲斐を胸に、新横浜のオフィスと横須賀を往復しながらの日々は続く。