まりびと:大島秀夫&榎本哲也(前編)
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Text by 二宮寿朗

 トップチームのコーチングスタッフには、かつてトリコロールのユニフォームをまとって戦ってきたOBたちがいる。F・マリノスの伝統を、プライドを、今の選手たちに伝えていく役割も担う。前編はアシスタントコーチを務める大島秀夫が登場。横浜フリューゲルスでプロデビューを果たし、2005年からF・マリノスで4年間、プレーしたストライカーである。紆余曲折のあった経験を財産に、指導者としての道を歩む--。

 トレーニング中、大柄なコーチは忙しそうにピッチを回っている。
 スタッフとコミュニケーションを取りながら、選手に指示を出しながら。「精力的」という表現がピタリとはまる。
 大島秀夫アシスタントコーチ、41歳。
 2016年シーズンを最後にギラヴァンツ北九州で現役にピリオドを打った彼は、翌年に古巣の横浜F・マリノスのジュニアユース追浜のコーチに就任して指導者のキャリアをスタートさせた。2020年からはトップチームにかかわるようになり、今シーズン、アシスタントコーチに就任している。

 アンジェ ポステコグルー監督からは多大な影響を受けたという。
「アンジェさんは選手、スタッフ一人ひとりをリスペクトしてくれて、包んでくれるような人としての大きさがありました。〝選手もコーチも、成長することが大事なんだ。だからやり続けなきゃいけないんだ〟とよく言ってましたね。信念を持ってブレずにやり続ける強さが、あの人にはありました」
 トレーニングを任されたときも、指揮官から特に指示はなかった。任したのだから、好きなようにやってみろ。そんなメッセージを感じた。終わってからのフィードバックもないため、どう評価されたのかも分からなかったが。

「ヘッドコーチには(自分の評価を)伝えていたとは思います。ただ、コーチとして成長するためにチャレンジしていくことが大事で、それを繰り返していけば良くなるという考え方。だから僕も、自分で考えてトライしてって感じでやらせてもらっていました」
 尊敬する指揮官の退任が決まった際、大島はタイミングを見計らって監督に直接英語で感謝の言葉を伝えている。
 大きな手を後頭部に回してハグされ、こう伝えられた。
「学び続けろ、前進を続けろ。どんどん良くしていこうという気持ちを忘れるんじゃないぞ」
 ボスの低いボイスが心に響いた。
 そしてもう一言。
「これまで素晴らしい仕事をしてくれた。ありがとう」
 思ってもみなかった言葉に、熱いものが込みあげてきそうだった。これからも日々成長していくことを、心のなかで誓った。

 前進あるのみ。それは現役時代もそうだった。
 前橋育英高から1998年に横浜フリューゲルスに入団。バルセロナでトップチームのコーチを務めたカルロス レシャック監督に評価され、遠藤保仁とともに18歳でいきなり開幕先発デビューを果たしたほどの期待の星であった。対戦相手は横浜マリノス。横浜国際総合競技場(現在は日産スタジアム)のこけら落としとなる〝横浜ダービー〟には5万2000人の大観衆が詰め掛けた。
 大島が述懐する。
「ファーストタッチでミスしたのは覚えているんです。あと、小村(徳男)さんとヘディングでロングボールをずっと競り合っていたことも。でも気づいたら交代していました。何もできなかったなっていう思い出しかない。でも試合に絡ませてもらって、よし、ここからやるぞっていう気持ちではありました」

(開幕戦、小村徳男と競るルーキー時代の大島)

 しかし開幕2戦目にケガに見舞われ、離脱に追い込まれてしまう。レギュラーの座が遠のいた。それでも巻き返しを図ろうとしていたが、シーズンの終盤にフリューゲルスがマリノスに吸収合併されるという衝撃のニュースが飛び込んでくる。18歳の少年は、それがどれほどのことか理解できてはいなかった。
「クラブがどうやって成り立っているかもよく分かってないころでしたからね。(出資会社が)一つ手を引いても、どうにかなるんだろうくらいにしか考えていなかった。でもみんなで集まったときに先輩たちの顔色は違っていました。そこで重大さを何となく理解できた感じはありました」
 天皇杯の決勝もベンチに入って、優勝を味わった。チームメイトと喜んだあの感激は忘れられない。と同時に、どうしてこんないいチームが解散しなくてはならないのか不思議で仕方がなかった。

〝再就職先〟は京都サンガに決まった。
 加入1年目は4試合の出場にとどまり、2年目の2000年シーズンではリーグ戦出場ゼロに終わる。ゼロ提示、すなわち20歳のときに契約非更新を告げられた。有名なエピソードが、契約の話を終えた後に遠藤らチームメイトとゲームセンターに行った話。ショックはショックだったが、危機感が足りない自分の姿勢がそのまま表れていた。
「今思うと全然プロサッカー選手じゃなかったということですよ。自分ではやっているつもりでしたけど、すべてが足りなかった。日ごろの練習の姿勢も、ワンプレーのこだわりも、次の日に向けた準備も」
 自分から動かないで、誘いの声が掛かるほど甘くはない世界。リサーチしてJクラブの練習に参加し、交通手段や宿泊も自分で手配しなければならなかった。ようやく「このままじゃサッカー選手として終わってしまう」と尻に火がついた。
 J2のモンテディオ山形への入団が決まり、練習着の洗濯も自分でやらなければならないハングリーな環境に飛び込んだ。日常を見直して、サッカーだけを見つめる日々を送るようになる。

(山形時代の大島)

 真摯な姿勢は嘘をつかない。レギュラーとしてチームの主力に成長し、4年目の2004年にはJ2日本人最多となる22ゴールをマークする。そして2003、2004年とJ1を連覇中のF・マリノスからオファーが届く。声を出すほどに驚いた。J1の、それもチャンピオンチームから。天皇杯で対戦した際のパフォーマンスが岡田武史監督の目に留まったようだ。
「とんでもないタレント揃いのチームですから、俺、やっていけんのかなっていう不安はありました。でも行ってダメなら仕方がない。チャレンジしなかったら何も始まらないと思ってオファーを受けました」

 チーム消滅があった。京都での不遇があった。危機感を募らせて山形でのろしを上げて、フリューゲルスを吸収したF・マリノスにたどり着いた。
「最初の練習のときに、選手の質が高くてプレースピードがこれまでやってきたサッカーとは全然違うなって感じました。岡田さんからもよく〝動き出しが遅い〟と指摘されて、そこは凄く苦労したし、意識しました。プルアウェーの動きで開いたところに大さん(奥大介)のボールが本当にちょうど来るんで、凄いなと思いましたね」
 ここでトレーニングをやっていけば絶対に成長できるという確信があった。加入1年目には9ゴール、そして早野宏史監督体制となった2007年シーズンは日本人最多の14ゴールを叩き出す。ポストプレーと空中戦の強さという武器もさることながら、前線からの守備も向上させていく。
「あのシーズンのスタートはメンバーから外れて出遅れて、紅白戦もBチームでした。チームのスタイルは前からプレッシャーを掛けていくやり方で、自分も前からガンガン行って、そして反骨心を持って。(出場の)チャンスをつかんだら、後は点を取り続けていくことだけ考えました。自信がついていい循環になっていい方向に進んでいった記憶があります。
 自分みたいなタイプは(フォワードの)二、三番手でいいやって監督さんに思われやすい。もしチャンスをもらえても、一番手の人がきたら(ポジションを)奪われてしまう。だから点を獲ろうが、いつも満足はしませんでしたね。結果を出し続けるしかないと思ったので」
 プロ10年目の覚醒。それは飽くなき前進を続けた成果であった。
 ただ、コンスタントに結果を残していくのは簡単ではない。さらなる活躍を期待された翌年のシーズンはケガもあって調子を崩してしまった。チームの構想から外れていると分かり、退団を余儀なくされる。
 F・マリノスで最後の試合となったのが、2008年シーズンの最終節。12月6日、アウェイの浦和戦で、後半途中からピッチに入った。5-1と大量リードで迎えた後半41分に清水範久のパスを受け取ってゴールネットを揺らした。

 本人にとっても印象深いゴールだったという。
「チームをただ去るよりも、やっぱり自分としてはゴールを獲って少しでも恩返しがしたかった。みんなも僕に獲らせようという気持ちが伝わってきました。小宮山(尊信)だけは自分で打っていましたけどね(笑)。プライベートでもお世話になっていたジローさんから凄く気持ちのこもったいいパスが来てゴールを決めることができました」

 F・マリノスを離れてからも日々、成長を言い聞かせてきた。
 アルビレックス新潟、ジェフユナイテッド千葉、コンサドーレ札幌を経て北九州へ。J1、J2合わせて494試合、98ゴールという成績を残して36歳でスパイクを脱いだ。
「やるだけやりました。北九州に移籍してからは毎年、引退のことは考えていましたから。(キャリア終盤は)若手に対してもっとこうしたほうがいいよっていう目線を持ちながらサッカーをやっていたので、(引退後は)コーチ業をやっていきたいなっていう思いはありましたね」
 指導者ライセンスも現役時代にB級まで取得。次にやりたいことは明確に見えていた。
運命とは面白い。たまたまF・マリノスがジュニアユース追浜のコーチを探していたため、古巣への復帰はスンナリと決まった。
 中学生に対する指導は想像以上に難しかった。
「人それぞれに個性ってあるじゃないですか。どのような順番で、どのような手法で、どのようなタイミングで教えるかって凄く深くて、最初は先輩コーチを見て勉強していくしかなかった。選手以上に日々勉強して高めなきゃいけないって感じましたね」
 ジュニアユースの子供たちから「京都でゼロ提示を受けてゲームセンターに行ったって本当ですか?」といじられることもあったとか。選手と一緒に成長を目指す毎日はとても充実していた。

(ジュニアユース追浜ではポルトガル遠征にも帯同)

 3年間ジュニアユースでコーチを務め、2020年はポストユースコーチ(U-21コーチ)という役職を務めた。そして「いつか携わりたい」と希望していたトップチームに加わることができ、ポステコグルー前監督から学んだことを胸にケヴィン マスカット監督をスタッフの一人として全力で支えている。
「監督が変わったからといって、やることは変わりませんから。チームの約束事、規律を守ったうえで、選手たちと柔軟にコミュニケーションをやっていければいい。一番は選手がポジティブにF・マリノスのサッカーをやること。それがすべてです。そういう声掛け、コーチングをやっていきたいと思っています。
ボールを保持してアグレッシブに攻めていくなか、ボールタッチやキープの(相手との)駆け引きや細かい部分はFW陣に言うようにしています。そこが経験値に基づいた自分が伝えられることでもあると思いますから」

 将来の目標は、Jリーグのチームで監督をすること。優勝できる監督になること。
 学び続けろ、前進を続けろ。
 選手時代がそうだったからこそ、ボスの言葉は誰よりも身に染みる。
 これから先も変わらない。「どんどん良くしていく」そのマインドを常に抱いて、進んでいくだけである。

(後編に続く)