Text by 二宮寿朗
横浜F・マリノスに戻ってきた2人のOBがいる。長年の現役キャリアにピリオドを打ち、スタッフとしてサッカーに対して変わらない情熱を傾けている。前編はアカデミー出身者で、2014年、15年シーズンにF・マリノスでプレーした藤本淳吾のストーリー。2022年シーズンを最後に引退し、23年1月にマリノスサッカースクールのコーチに就任。指導者としてのセカンドキャリアをスタートさせた。プレーで人々を魅了してきたレフティーの、F・マリノスへの思い――。
出会いと別れ。その繰り返しが藤本淳吾とF・マリノスの物語である。
プライマリーの一員としてサッカーに励んでいた小学4年生の淳吾少年は、1993年5月15日、東京・国立競技場で華々しく開幕したマリノスとヴェルディ川崎の一戦をスタンドで目にしていた。ピッチがまばゆく映った。
「あの試合を観戦して将来プロサッカー選手になりたいと思ったとか、そういうことではなくて、単純に雰囲気が凄かった。自分もこのクラブの育成組織にいるんだって。そりゃあF・マリノスを好きになりますよ」
記念すべき開幕戦で決勝ゴールを挙げたアルゼンチンのスター、ラモン ディアスが同じ左利きとあって藤本の推しメンだった。両手を広げるゴールパフォーマンスも良く真似をした。プライマリーにはディアスの息子も通っていて、新子安のグラウンドに父親がふらりと訪れるとテンションが上がった。トップチームと同じユニフォームを着て試合が出来ることは大きな喜びになった。
順調にプライマリーからジュニアユースに昇格。しかしここで大きな挫折が待っていた。中2に上がるタイミングで25人のメンバーのうち次に進めない5人のなかに入ったのだ。好きだったチームから〝別れ〟を突きつけられたのだ。
「1年生のときに試合に出られないし、メンバーにも入れない。薄々は分かっていたつもりでしたけど、実際に伝えられたときはショックでしたよ。コーチが言っていることを素直に聞いていなかったし、サッカーに対して真面目じゃなかった。自分がダメでしたね」
F・マリノスでなければ意味がなかった。最初はサッカー自体を辞めようと考えた。でも1週間経って「やっぱりボールが蹴りたい」と別の環境でサッカーを続けることにした。
日本クラブユースサッカー選手権準優勝などの実績を持つ横浜栄FCで残りの中学時代を、そして桐光学園で高校時代を過ごしてメキメキと力をつけていく。川崎市選抜の試合を視察した田嶋幸三U-16日本代表監督の目に留まり、2001年のU-17ワールドカップにも出場。F・マリノスの同世代の選手たちにいつしかライバル意識を持つまでになっていた。
「(代表は)3月の早生まれだったことも、たまたま田嶋さんが試合を観てくれたこともラッキーでした。プライマリーからジュニアユース、ユースと上がっていったテツ(榎本哲也)、(栗原)勇蔵は同じ年で、1つ上に(田中)隼磨くん、(金子)勇樹くんたちがいた。いつかこの人たちの上を行きたいって思うようにはなっていきましたね」
向上心に火がつくと、さらなる成長を呼び込んでいく。
進学した筑波大学ではチームタイトルも個人タイトルも積み上げ、大学選抜の中心選手でもあった。優勝した2005年8月のユニバーシアードでは大会MVPと得点王を獲得している。
国内の「10クラブくらい」から本人のもとにオファーが届いた。そのなかには古巣のF・マリノスもあった。
「選べるくらいのオファーをいただいて感謝しかなかったですし、ジュニアユースのときに、それも1年で落とされた自分がここまで這い上がってこれたんだなとは思いました。でもオファーをいっぱいいただいたなかで、(F・マリノスが)最後だったんですよ。そうでもないのかなって。4クラブに絞ったなかに入ってはいましたが、真っ先に声を掛けてくれたところに行こう、と」
特別指定選手としてプレーしていた清水エスパルスに加入。背番号10を託された黄金ルーキーは初年度の2006年シーズンから活躍を遂げ、Jリーグ新人王に輝いた。翌年にはイビチャ オシム監督率いるA代表にも初選出されている。エスパルスで5シーズンにわたってプレーした後、2011年から名古屋グランパスに移籍して主力を担った。10、11年と2年連続でJリーグベストイレブンにも選ばれている。
妻にしか伝えていない人生設計があった。
大学を卒業して10年間は絶対にプロでやっていく、30歳手前になったら愛着あるF・マリノスのユニフォームを着てプレーする――。つまりは10年の区切りを、古巣で迎えたいという青写真を理想として描いていた。
密かなその思いは、実ることになる。プロ9年目となる2014年シーズンを前に、オファーが舞い込んだ。
「実はエスパルスとの契約が切れる2010年の最後にも(オファーが)あったので、これが3回目でした。グランパスから(更新の)話をいただいてはいたんですけど、これはもうタイミングが来たんだな、と。中学1年までお世話になった大好きなチームに戻ることが決まると、やっぱり凄くうれしかったですよ」
背番号は25。プライマリー時代で教えてもらっていた樋口靖洋監督のもとでの練習は、遠い記憶を呼び覚ましてくれた。
「そういうこと!」「それを見たかったんや!」
プレーを褒めるとき、樋口にはお決まりのフレーズがあった。甲高い声のボリュームが上がれば上がるほど、藤本の体内に喜びが走るのだ。
「小4のころ、ボールをコントロールして相手の逆を突くとか、相手の嫌なところに入っていくとかすると、やっさんの大声が挙がるんです。その言葉が聞きたくて、やっていたところもありましたよ。それから20年くらい経っても、あの人は変わっていなかった。〝そういうこと!〟って言われると懐かしいし、気持ちいいし、心が躍るんです」
2014年3月2日、ホームの日産スタジアムで行なわれた大宮アルディージャとの開幕戦。藤本は挨拶代わりの鮮やかな先制ゴールを決める。前半17分、齋藤学が左サイドからドリブルでペナルティーエリア内に侵入し、競り合いからこぼれてきたボールをワンタッチでゴール左隅に蹴り込んだ。
「ドンと思い切り蹴るんじゃなくて、インサイドキックでコースを狙いました。自分らしいゴールだったかなとは思います。みなとみらい(マリノスタウン)での練習だったら、〝そういうこと!〟ってやっさん、言ってくれたかもしれないですけど(笑)。
シュンさん(中村俊輔)、ボンバー(中澤佑二)、ドゥトラたちがいて、足もとのうまい選手がいっぱいいたし、チームとしてある程度形が出来上がっているなかに入っていったのでどうやって自分の色を出しながら、チームのやり方に合わせていくか、周りの選手とどう絡んでいくかというのは、考えながらやっていました」
スムーズに溶け込むことができた。第3節、ニッパツ三ツ沢球技場での徳島ヴォルティス戦(3月15日)でもゴールを挙げて開幕3連勝に貢献する。最高のスタートを切りながら、思わぬケガが待っていた。
「アキレス腱を痛めてしまったんです。あのあとACLでメルボルンに行って、痛み止めを飲んでも全然痛みが引かなかった。結局離脱してしまい、そこからちょっとリズムが崩れたところはありました」
みなとみらいのグラウンドの土が硬く、リバウンドとの戦いもあった。それでもコンスタントに出場を続けたものの、前年に逃がしたリーグ優勝を成し遂げることができなかった。藤本にとっても悔しさの残る加入1年目のシーズンになった。
マリノスタウンはトップチームと同じくアカデミーの練習拠点でもあった。プライマリー時代に指導してもらった和田武倫をはじめ顔なじみのスタッフがたくさんいた。練習終わりに3階の食堂で話をしたり、昔話に花を咲かせたり、実際にアカデミーの練習を見たり、〝故郷〟に戻れたことで原点に立ち返れたような気がした。
「トップチームの選手のスパイクって別注があったり、流通していないカラーがあったりして、プライマリーの子どもたちが〝うわっ、すげえ〟とか会話しているのが聞こえてくるんですよ。そういうときに〝見てごらんよ〟って話し掛けて、これから練習試合だって聞いてそのまま観戦したこともありましたよ。終わったら、一緒にちょっとボールを蹴ったりもしましたね」
ラモン ディアスを憧れの目線で見たように、今度は自分がそう見られる立場になったことをあらためて自覚した。アカデミーの子どもたちの目標になるべく、日ごろの振る舞いにも注意を払うようになったという。
選手、社員、スタッフが参加する年に一度の社内運動会にも参加した。「そういうイベントに積極的に出るタイプじゃない」男が、積極的に関わっていく。社員やスタッフと一緒になって綱引きに参加し、家族で交流していく。マリノスファミリーの一員になっていること自体が、プレーへのモチベーションになっていた。
「やっぱり僕にとってF・マリノスは特別。嫁さんに〝クラブとしてもっとこうしたらいいんじゃないか〟とか話をしていたら、〝F・マリノスのこと好きだね〟って。中1で離れて15年くらい反抗期で出ていってますからね(笑)。なかなか説明しにくいですけど、戻ったら余計にクラブのこと考えるようになりました」
やっと結びついたジュンゴとトリコロール。今度こそ関係は長く続くと思われたが、わずか2シーズンで終わりを告げることになる。エリク モンバエルツ監督を迎えた2015年シーズン、前年と打って変わって出場機会が激減。エスパルス時代の恩師である長谷川健太監督が指揮を執るガンバ大阪への移籍を決めた。
以降、ガンバ、京都サンガ、SC相模原と渡り歩き、J2、J3も経験した。「プロで10年」を目標にしていた人は結局、18年間にわたってプロのピッチに立ち続けた。
セカンドキャリアは指導者になると決めていた。
声を掛けてくれたのが、またしてもF・マリノスだった。複数の選択肢があったなかで、古巣で指導者キャリアをスタートしたいと思えた。同期の榎本も、F・マリノス、相模原で一緒にプレーした先輩の富澤清太郎もスクールコーチから始めていた。新吉田、追浜、日本工学院などを回りつつ、学んで吸収した1年間だったという。
「もう勉強の毎日ですよ。いろんなことをゼロから学んでいます。やり方、教え方、伝え方。ここには経験豊富なスタッフが多くて、一つのことに対していろんな方向から見て、事前に準備し、しっかりとつくり上げてスクールやアカデミーの選手たちに提供しています。僕自身、別の視点とかも含めてじっくりと考えることができるようにもなりました。掲げたテーマを子どもたちがその日のゲームでできたり、継続して意識できたりすると、教えている僕としてもうれしいですね。
個人的にはしっかりデモができる指導者でありたいと思っています。言葉じゃなくて、実際にプレーで見せてあげる。説得力が出てくるので。そこは自分の強みでもありますから」
F・マリノスを愛し、逆に愛され、戻ってくるたびに絆を強くする不思議な関係性――。
そういうこと!
やっさんばりにグラウンドでそう叫ぶ日も、きっとそう遠くないはずだ。