Text by 二宮寿朗
横浜F・マリノスの育成組織で培ったものをベースに2024年、飛躍を誓う若者たちがいる。23歳の榊原彗悟と20歳の山根陸。前編は〝ユースの10番〟榊原のストーリーを綴る。育成組織時代は体が小さく、悩んだ時期もあったなかで高3時にはJユースカップで優勝し、MVPを獲得するほどに成長を遂げる。トップチームには昇格できなかったものの、JFLのラインメール青森で活躍してF・マリノスに加入した苦労人。様々な壁を乗り越えていった先に、今のケイゴがある――。
目の前に壁が立ちはだかろうとも、榊原彗悟がひるむことはない。
一生懸命にやっていく日常を続けていれば乗り越えられるという経験を、彼は繰り返してきたからだ。
JFLのラインメール青森への期限付き移籍から復帰となった2023年シーズン、「慣れるまでにだいぶ時間が掛かってしまった」感はあったものの、それでもリーグ終盤戦に出場機会を得るようになる。テクニックに特長を持つ攻撃型ボランチの〝本質〟は、チームからの要求をソツなくこなしていく順応性と万能性。時間を掛けながらじっくり磨き上げてきたことはパフォーマンスを見れば十分にうかがえる。
土台は、育成組織時代にある。
小学6年のころ埼玉にあるレジスタFCでFIFA公認のU-12世界大会「ダノンネーションズカップ」を制し、大会MVPにも選ばれた注目株はF・マリノスの育成組織から声が掛かり、中学生になるタイミングでジュニアユース入りした。
最初の壁が待っていた。中学生になると周りがグングンと体が大きくなっていくのに対し、榊原は小さいまま。なかなか試合にも出られなかった。
「ある程度体ができていないと戦えないところがありました。それくらい(体の)差があったので。体を当てられてしまうとどうしても厳しくて、そこはもう自分の技術を信じてやったり、ポジショニングを意識したりしました」
埼玉の中学校で授業を終えると1時間半掛けて、みなとみらいのマリノスタウンに通った。練習して自宅に戻ると夜11時を超えた。途中の駅で仕事終わりの父親と待ち合わせて帰るのが日課だった。ちょっと遅くなっても父は待ってくれた。父も母も、いつも応援してくれた。家族の存在が、疲れや悩みを吹き飛ばしてくれた。
中2になっても身長は140 cmほど。あのリオネル メッシが成長ホルモン分泌不全症によって身長が伸びなかったとあって、家族、そして当時U-14世代を指導していた松木秀樹コーチ(現在はヘッドオブスカウト及びユースコーチ)とともに病院に出向き、診察を受けた。異常は見つからず、胸をなで下ろすことになる。
松木は数いる恩師の一人。試合ではどうしてもフィジカルの問題がつきまとい、プレー強度が落ちてミスが増える後半途中に決まって途中交代させていた。ここには明確な狙いがあった。松木が振り返る。
「彗悟のサッカーセンスは間違いないものでした。私が意識したのは、素材を大切にして変なことを教え込まず、足りないところを促していく。スタメンで出して、後半明らかに(体力が)落ちました。鍛えるなら最後まで使い続ける考えもあります。でも僕は交代させて、『もうチームのなかで機能していない』と本人にも言いました。メチャメチャ悔しそうでしたよ。こっちからしたら期待どおりの反応。それが7、8回も続くと挨拶もしないでベンチに戻ってくる。でも反発によるそれではなくて、上を目指す子なりの表現でしたから何も心配は要らなかった。むしろこんなに自分のメッセージがきれいに伝わる子がいるんだなって思ったくらいです」
純粋に、ひたむきに。ウイークポイントの体力を向上させつつ、「技術とポジショニングとアイデア」という自分のストロングポイントを伸ばそうとする。中3になるとフル出場が増え、課題を克服してチームの苦しい時間帯にゴールを奪うことも良くあった。8月の日本クラブユース選手権(U―15)準決勝のガンバ大阪ジュニアユース戦では後半に決勝点を挙げる活躍を見せ、決勝戦もフル出場して優勝に貢献した。146 cmの小さな体が躍動した。
壁を越えたら、また壁が待っていた。
ユースへの昇格を果たしたものの、なかなか出場機会を得られない。高2になると「自分以外の選手はほとんど試合に出ていた」。榊原の世代は、アンダー世代の日本代表でもプレーする棚橋尭人、椿直起らタレントぞろい。かつ彼らは飛び級で上の世代に入ってプレーしていた。彼らと差がついてしまっていると感じたこともある。
「ユース時代の自分はBチームでボランチをやっていて、たまにAチームに行くとトップ下で使われていたので、その難しさを感じていました。同じ年に直起がいて、学校もクラスも同じ。土曜日に授業があると、直起は試合があるからいない。友達も〝直起は凄いな〟みたいになりました。周りの目は気にしていないつもりだったし、直起は凄いと僕自身思っていた。でもどこかメンタルの保ち方が難しかった時期ではありました」
ユースの小原章吾コーチ(現在はFC今治強化担当)は「絶対に大丈夫だから」と言ってくれた。心の苦しみを何度も伝えた両親からは「いつか必ず花が開くから」と背中を押された。一つひとつの言葉を支えに、毎日、自分の100%を出すという自分の信念を曲げることなくやり続けた。徐々に出番を増やしていき、彼はユースの10番を背負うことになる。
夏の日本クラブユース選手権(U―18)はグループステージ敗退に終わり、トップチーム昇格の話が舞い込むこともなかった。ただ、ようやく自分のプレーが出せる感覚を持ち始めるようにもなる。
「クラブユースが終わって、ポジションがボランチからトップ下になってのびのびやれました。自分らしく自由にやれたこともあって自信を取り戻せたし、何より楽しかったですね」
身長は160 cmを超え、フィジカルもついてきた。10月には知人の紹介を受けてメキシコに飛び、ケレタロFCのアンダー世代チームの練習に参加。短い期間ではあったものの、手にした収穫は少なくなかった。メキシコのプレーの激しさを味わったことで、プレッシャーを掛けられようが余裕が出るようにもなった。帰国して出場した11月のJユースカップは優勝。榊原はここで大会MVPに輝いている。
写真:優勝したJユースカップではMVPも受賞した
ジュニアユースでもユースでも、最初はまったく試合に絡めていない。それが最後になると主力としてチームになくてはならない存在となる。うさぎではなく、亀。ノシノシと力強く前に歩を進めることで彼は才を伸ばしてきたと言える。
この活躍を受けて再びトップチームから呼ばれて練習に参加する。精いっぱいアピールしたが、椿、山谷侑士に続いての昇格には届かなかった。もはや大学の道も考えず、しばらくは失意だけが心のなかで広がっていた。
思わぬところから練習参加の打診が舞い込んだ。
J1のほかのチームでもJ2でも、J3でもない。青森市をホームタウンに置くJFLのラインメール青森からだった。ユースの1つ先輩である西山大雅がF・マリノスから移籍したことで名前は知っていた。2つ上の先輩もプレーしていた。練習参加からオファーに至り、JFLの世界に飛び込むことを決めた。
通用するんじゃないかと考えていた自分の甘さに気づかされることになる。
「F・マリノスの育成組織でずっとやってきて、自分がJFLでプレーすることは正直想像もしてなかったし、変なプライドもあったとは思います。ただ未知数だったその世界に入ってみたらプレースピードも速いし、レベルが思っていたよりも全然高い。イメージがガラリと変わりました」
ハングリーな環境に身を置いた。年俸が少なく、同じ年のチームメイト、先輩と3人でシェアハウスの一室を借りて生活をした。栄養をつけて体を大きくしないといけないため、埼玉に住む両親から食材を定期的に送ってもらった。
「生活するのも厳しいし、自分はこれからどうなるんだろうっていう不安は常にありました。知らない土地に行って、知らない人とサッカーをして、最初は緊張のほうが強くてなかなか馴染めなくて。練習していても、先輩たちからの要求に応えられなくて怒られたりして……。みんな人生が懸かっているので、もちろん理解できるんですけど、気持ち的にはきつかったですね。大好きなサッカーをやっているのに、あまり楽しめていなかった」
JFL1年目は公式戦出場なしに終わる。2年目も7試合に出場しただけ。不安はますます大きくなっていく。ただ慣れるのに時間が掛かるのはジュニアユースでもユースでも経験してきたこと。試合に絡めない苛立ちとの葛藤はありつつも、腐らず真面目に取り組む姿勢を曲げることはなかった。
転機となったのは3年目となった2021年シーズンだ。F・マリノスの〝名物ユース監督〟としても知られ、カターレ富山を前シーズンまで率いた安達亮が監督に就任すると、止まっていた時計の針が動き出すような感覚を持つことができた。
「最初はベンチ外が多かったんですけど、試合に出ていなくても成長できているなっていう実感がありました。そんなときに亮さんから呼ばれて〝ちゃんと練習をやっているのは分かっている。でも(試合に出ている選手と)何か違いがないと、何か差を出せないと(レギュラー争いには)食い込めないぞ〟と言われました。
その一言はとても大きかった。トップ下で僕とポジションがかぶるベテランの人は、僕が今まで見たこともないくらいうまい人だったので技術だけでは勝負できない。ハードワークやポジショニング、周囲との連係みたいなところで違いを出せればいいと思うようになりました」
ひと皮むけるには、ハードワークは欠かせなかった。そして頭を使って、周囲を助けつつ、活かしつつ、組織力を上げていく役割を担いたいと考えた。やるべきことが分かると、練習から〝違いを出す〟ことを意識し、さらに打ち込めるようになった。
自ずとチャンスはやってきた。
勝利をつかむ働きを見せたことで榊原は先発に定着していく。結果的に21試合に出場し、飛躍のシーズンとしたわけである。身長は167 cmとなり、体重も5kgほど増えたという。
サプライズが待ち受けていた。シーズン後、F・マリノスの本社に毎年のように挨拶に出向いた際にその場でオファーを受けたのだ。実はラインメール側にその話は伝わっていたのだが〝直接言ってもらったほうが本人も喜ぶ〟との配慮があったそうだ。JFLから一気にJ1へ。あまりにうれしすぎて、言葉にもならなかった。
「毎年、挨拶に出向くと〝試合に出たらみんな喜んでいるぞ〟と言ってくれて、自分のことも見てくれているんだって思えるだけでモチベーションにはなっていました。その年もそうやって言われたらいいなと期待していたら、まさかオファーが来るとは夢にも思わなかった」
ただF・マリノスに完全移籍を果たすと同時にラインメールへの期限付き移籍という形に。プレー先が変わらない現実を直視し、浮かれないよう自分にクギを刺した。復帰がなく、契約満了というケースもJリーグにはよくある話。F・マリノスにコーチングスタッフの一人として復帰することになった安達がラインメールから去っても、しっかりと活躍してトリコロールのユニフォームを着ることを絶対に成すべき目標とした。
10番を背負い、強い気持ちで臨んだ22年シーズンは29試合に出場。念願叶ってF・マリノスから呼び戻され、背番号35を受け取った。
育成組織を卒団してから4年、嬉しい再会もあった。ジュニアユース、ユースで同期だった木村卓斗も明治大学を経て戻ってきたのだ。
「お互いに違う4年間を過ごしてきたなかで実は2回ほど卓斗の試合を観に行っています。サイドのイメージが強かったけど、ボランチでいいという話は共通の友達からも聞いていましたし、こういうプレーもできるんだって新しい発見がありました。だから(F・マリノスに)加入することになってそりゃそうだろうなと思いました。一緒に帰ってくることができて、本当に良かったなと思いました」
自分の歩みを振り返っても、最初はうまくいかないことも覚悟はしていた。宮崎での春季キャンプではケガを負ってしまう。
「高いレベルでのプレー強度、スピード感になかなかついていけず、最初のころは緊張して体がこわばっていたので体に余計な負荷が掛かっていたのかなとは思います。技術的なところはある程度通用するんじゃないかと考えていましたが、それでもチームに慣れるまではある程度の時間が必要だなとは感じていました」
即戦力として期待されていることは分かっていながらも、焦りは禁物と言い聞かせた。ゆっくりと、じっくりと。トップチームのコーチを務める安達からも「大丈夫、全然やれるから」と言われていた。
4月5日、ルヴァンカップグループステージのホーム、北海道コンサドーレ札幌戦において後半途中から出場して公式戦デビューを果たすと、5月24日、アウェイの札幌戦では初ゴールをマークする。それでもリーグ戦ではベンチ入りを果たせなかった。
トレーニングではケガ人が続出するなか、不慣れなサイドバックやセンターバックもこなしている。ポジションがどこであっても、やることを察知して自分なりに表現するだけだった。
「ケガ人が少ないころは紅白戦にも入れない状況でしたから、どのポジションだろうが入れるだけでうれしかった。誰がどこで出ようが、F・マリノスのサッカーをやれなきゃいけない。そこで何かインパクトを残せれば、チームのオプションになると思っていましたから。
自分はどうしても環境に慣れるまで時間が掛かるタイプ。でもその分波があまりないというのは昔、松木コーチからも言われていて、自分の良さだなと気づけた部分ではありました。試合に出られないから全力でやらないっていうのは絶対にあり得ないこと。いつチャンスが来てもいいように、と最善の準備を日々やってきたつもりではあります」
そしてついにJ1デビューの日が訪れる。
10月21日、日産スタジアムでの北海道コンサドーレ札幌戦。初めてリーグ戦でメンバー入りを果たすと後半24分からボランチで起用され、ボールを奪って持ち上がってスタンドを沸かせた。途中からは右サイドバックに回るなど、攻守両面でソツのないプレーを見せている。
試合後、先輩たちが声を掛けてくれたという。
「サネくん(實藤友紀)だったり、(宮市)亮くんだったり、メンバー外練習の4対4や5対5が活きたよねって言ってもらえて、みんなと一緒に頑張ったことが実になって良かったなって心から思えました。大体その練習を見てくれていたのが亮さん。そこで自信を持たせてもらっていたので、ピッチに立ったら緊張もなく、自分らしくプレーできました」
リーグ戦は計3試合、37分間の出場にとどまったとはいえ、2024シーズンにつながる1年にすることができた。ボランチには同じ育成組織出身で、3つ年下の山根陸もいる。リーグ終盤に入って先発に定着した後輩は刺激を受ける存在でもある。
「陸とはサッカー観が合うなとは思っています。陸のプレーはお手本になるし、年下ですけどリスペクトも凄くあります。ただ、ポジションを争うなかで絶対に負けたくないし、ライバル関係であり続けたい。お互いどう思っているか分からないですけど、お互い切磋琢磨してこのクラブを背負えるような関係になっていきたい。向こうはどう思っているか、分からないですけど(笑)」
慣れてからが榊原の本領発揮。コツコツと積み上げてきたものを実にしていくのが、この2024シーズンになる。
苦しいときがあっても、乗り越えることができた原体験。厳しくも温かい環境によって引き上げられたという思いが彼にはある。
トップチームで活躍してこその恩返し。榊原は言う。
「いつだってこのクラブは僕にとって憧れ。トップチームでやれるなんて思っていなかったので、今もその気持ちをとても大切にしています。F・マリノスはエンブレムもユニフォームも何もかも全部かっこいい。僕からすればいつもキラキラしている存在なんです」
もっとキラキラにしていくために――。
静かにギラギラと闘志を燃やしていく榊原彗悟がいる。