まりびと:細川パブロ大&佐伯満(前編)
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Text by 二宮寿朗

 裏から、陰からサポートする多くのスタッフがいる。まもなく30周年のメモリアルイヤーを迎えるクラブにおいて、20年以上にわたって支えている〝ベテラン〟たち。そのなかから2人に登場していただく。前編はチーム統括本部チーム編成戦略部の細川パブロ大。アルゼンチン出身で長年クラブの通訳を務めてきた彼のストーリーを描く。

 通訳の仕事は、言語の変換だけにとどまらない。
 横浜F・マリノスの通訳スタッフはピッチ外においても担当する監督、コーチ、選手たちをサポートする。異国の地で困ったことがあれば真っ先に駆けつけようとする。
 このマインドは、きっと彼から受け継がれている。
 細川パブロ大、48歳。愛称は「ヒロ」だ。
 現在は現場を離れてチームに関わる業務をこなしつつ、通訳スタッフのフォローに回ることも少なくない。ホーム試合では運営の仕事を自ら手伝うこともある。アラフィフにしてフットワークは軽く、とにかく気が回る人だ。
「人の世話をするのが元々好きな性格ですからね。人と関わる仕事をやらせてもらっているわけだから、やり甲斐はありますよね」
 ほかのスタッフと一緒に汗をかきたがるのも「世話好き」の彼らしい一面である。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでまだ大学生だった1995年、ヒロの運命が大きく変わることになる。
 クラブはアルゼンチン人指揮官ホルヘ ソラリを招聘し、ラモン ディアス、メディナ ベージョ、ダビド ビスコンティ、グスタポ サパタら多くのアルゼンチン人選手を擁していた。スペイン語と日本語ができる通訳をアルゼンチンで探していた当時の森孝慈GMの目に留まったのが細川と1歳上で幼馴染のロベルト佃(現在はFIFA公認代理人)であった。
「君たちの力が必要だ。ぜひ日本に来てくれないか」
 聞けば新シーズンに向けてチームが始動するため、時間がないという。返答の期限は何と翌日。あのディエゴ マラドーナがいたボカ・ジュニアーズの熱烈なサポーターでもあり、Jリーグが日本で盛り上がっていることも知っていた。サッカークラブでの仕事と聞いて、俄然、興味が湧いた。結局、両親に相談することなく、日本行きを決めてしまう。
「10歳のときに一度日本に行って、父の実家である北海道を含め3カ月間過ごしたことがあって、一度日本に住んでみたいなっていう憧れはあったんです。ロベルトと話をして、〝せっかくだから1年くらいやってみようか〟と結構軽い感じで決めました。
 母親は森さんがあいさつに来た際にメチャクチャ怒っていました。〝どうして学生のウチの子を連れていくの?〟と。相談しなかった自分がいけないんですけどね」

(細川家。ヒロは3人兄弟の末っ子[左手前])

 日本語、スペイン語、英語のトリリンガル。
 アルゼンチンで生を受け、スペイン語は言うまでもなく、日本語も苦にしなかった。
 細川の父は大学時代にJICA(国際協力機構)の前身団体でアルバイトをしていた関係からアルゼンチンに渡り、農業を営んだ後にJICAのブエノスアイレス支所に勤務するようになる。母も日本語の教師を務めており「自宅では日本語、外に出たらスペイン語」の生活だった。日本の漫画もよく読んでいた。両親のススメもあって英語も勉強していた。トリリンガルになれたのは「両親のおかげ」と感謝する。

 期待と不安を抱えての来日。だがすぐにチームに溶け込んでいく。
 サテライトを担当するアルゼンチン出身、マルコビッチ監督の通訳がメーンの業務となった。選手やスタッフと一緒に寮で生活し、川口能活、松田直樹、安永聡太郎ら若手選手とも仲良くなった。サテライトにいるベテランの選手からも可愛がられた。ホームシックはまったくなかった。
 あるとき松橋力蔵からこう言われたことが胸に残った。
「監督がワーッと怒った後にヒロが通訳でまたワーって怒るように言うと、こっちは2回怒られた気分になる」
 最初はテンションまで真似していたが、そこからは軌道修正した。伝える側、伝えられる側、その両方に立つ通訳によって評判は良かった。ソラリはファーストステージ途中でチームを去ったものの、初の年間王者に輝いた。
たまらなくうれしかった。「1年くらいやってみる」つもりが、自然の流れで契約更新のオファーを受け入れた。

(ヒロとコーチ時代のデラクルス)

(フリオ サリナス、ロベルト通訳、デラクルス コーチといつかのトレーニングキャンプ)

 契約上、仕事は通訳のみだ。外国籍監督、コーチ、選手に何かピッチ外で困ったことがあると主に総務部が対応していた。だが会話がおぼつかないため、結局は通訳が入ることになる。ならば自分がやったほうが早いと、「お世話係」を買って出ていく。
「せっかく海外から来てくれたんだから、自分の国にいるようにまでとはいかないとしてもなるべくサッカーに専念できるようにしてあげたい、と。家族も含めてストレスを感じてしまったら、それがサッカーのほうに影響が出てしまうこともありますから。だから〝何かあったらすぐ言ってほしい〟とは伝えていました。自分の家族に理解してもらいながら、24時間365日、いつでも出動できるようにはしていたつもりです。俺、人の面倒を見るのって嫌じゃないなって思いました」
 ヒロはアルゼンチンでの父の姿を思い起こしていた。アルゼンチンにやってきた若い移住者などの世話もしていた父。悩んでいる人がいれば自宅に呼んで励ましたりもしていた。面倒見の良さを受け継いでいると感じることはちょっとした喜びになっていた。
「ブエノスアイレスでは自宅に帰ったら、家のなかに知らない人がいることがよくありました。言葉も違うし、現地の生活に馴染めない人もいたそうです。父はそういう人たちを放っておけない。自分もそこは似ているなと思ったし、父の気持ちもよく理解できました」
 通訳は天職とばかりに、1年ごとの契約更新オファーを受け入れていく。ポルトガル語も習得してブラジル人選手も担当。2001年の残留争いや2003、2004年のリーグ2連覇も経験。気がつけばキャリアは10年を超えていた。

 多くの監督、コーチ、選手を受け持ってきたなかで「最も思い入れの強い人」を尋ねると、彼はブラジル人左サイドバックの鉄人ドゥトラの名を挙げる。
 ドゥトラは2期にわたって在籍している。2001年シーズン途中に加入し、2006年シーズンまでプレーしたのが1期目。そして2012年1月の「松田直樹メモリアルゲーム」で久々に来日を果たすと、その試合のパフォーマンスを評価されて38歳で再契約している。これが2期目だ。
「尊敬できる人柄とプロ意識は、このクラブに大きな影響を及ぼしたと思います。2001年にはJ1残留を決めたヴィッセル神戸戦でフリーキックを決めたり、2004年の浦和レッズとのチャンピオンシップではPK戦でゲームを決めるキッカーとなったり、大事なところで重要な役割を果たしてきました。
 クラブを離れてからも連絡は取り合っていました。30代後半になってもバリバリやれていましたよ。映像でも見ていたし、現地の新聞でも主人公が若返っていく『ベンジャミン・バトン』になぞった記事が出ていたので、(メモリアルゲームで)コンタクトを取ってほしいと強化部から言われたときは、もう一度F・マリノスでプレーする可能性もあるなと思っていて、実際にそうなりました」
 ドゥトラからも「必要としてくれるなら行きたい」と前向きな返答を得ていた。復帰に向けてアシスト役を果たしたわけだ。プロとしての姿勢はチームメイトにも好影響を与え、2013年には天皇杯優勝に貢献している。彼はこのF・マリノスで現役を引退した。

 ヒロがアルゼンチンに帰るのはオフシーズンだけ。生活の拠点を戻すという選択肢はなくなっていた。結婚して子供も授かり、「ここで骨をうずめたい」という思いが強くなった。1年ごとに契約更新する通訳スタッフとしてではなく、クラブの社員として働きたい――。これまでの仕事ぶりも評価され、のちに細川の思いは実ることになる。
 社員となると通訳のみに特化するわけにはいかない。いやむしろそれは彼が望んでいたことでもあった。強化部に入り、チーム編成や契約の手続きなどを学んだ。ホームタウン・ふれあい部に異動すると地域とクラブの関係づくりを手伝うことができた。そしてアンジェ ポステコグルー監督2年目の2019年シーズン、英語の通訳として現場に呼び戻されることになる。指揮官とはビザの手続きや自宅探しなどを手伝っていて、その仕事ぶりを買われていたからだ。

 指揮官がブラジル人選手にダイレクトで伝えたいことがあると、決まって「パブロ!」と呼ばれた。
「エリキ、マテウスが(途中から)入ってきて1週間ほど経って、監督から僕が呼ばれたんです。今から話すことを彼らに伝えてくれ、と。『マルコス(ジュニオール)がなぜこのチームで活躍しているか分かるか?技術だけじゃない、100%ハードワークしてチームのために走り切れるから活躍しているんだ』との監督のメッセージを2人もよく理解したと思います」
 細川は年長者のスタッフとして振る舞いにも心を砕いた。15年ぶりの優勝が近づいても、気が緩まないようにした。スタッフのちょっとした行為がチーム全体に及んでしまうことがあるからだ。試合中、他のスタッフが無意識的に少し緩んだように見えると「ちゃんとしよう」と呼び掛けている。優勝を果たすまで、彼は選手以上に気を張っていた。

 今は現場を離れ、チーム統括部の立場から若い通訳たちにアドバイスを送ったり、フォローに回ったりしている。
 いつしかボカ・ジュニアーズよりも愛すべき存在となった。心のなかではラテン気質の激しい愛情をF・マリノスに対して燃やしている。
「そこに理由なんてないですよ。ずっと生活の一部になっているわけだし、それはこれからも変わりませんから。常に勝ってほしい。これからもクラブのためにできることを考えていきたい。国際部みたいなセクションを作ることができればいいなって個人的には思っているんですけどね」
 人と関わって、その輪をもっともっと広げて。
 F・マリノスがF・マリノスであるための「変換」をこれからもずっと支えていく――。

(終わり)