Text by 二宮寿朗
日産自動車サッカー部時代の1985年に男女の小学生を対象とした「日産サッカースクール」が立ち上がって以降、横浜マリノスに移行してからも育成に力を入れてきた。スクールを起点にプライマリー、ジュニアユース、ユースなど広がりを見せ、トップチームをはじめサッカー界に多くの人材を送り出している。F・マリノスが誕生して30年、クラブの育成にずっと携わってきた人たちがいる。後編は現在、スクールダイレクターで関東学院大学サッカー部の総監督を務める和田武倫の物語――。
5月24日で還暦を迎える和田武倫は、ここまで人生の半分以上をこのクラブで過ごしてきた。日産自動車サッカー部の選手として4年間、ジヤトコで現役を引退して横浜マリノス誕生前の1991年にスタッフとして復帰してからは30年以上にわたって育成に力を尽くしている。現在の肩書きは、スクールダイレクターであり関東学院大学サッカー部総監督。日産時代からつながる育成の歴史を知る貴重な存在としてアカデミーの多くのスタッフから慕われ、一目置かれている大ベテランである。
育成の仕事は、彼にとって天職と言っていい。
「僕の本当の希望としたら、高校を卒業したら大学に行って、そして学校の先生になり、高校サッカーの監督になるのが夢でした。だから(日産から育成のスタッフとして)誘われたときは、それはもう嬉しかったですよ」
和田は北海道の名門・室蘭大谷高の出身。スイーパー、守備的MFとして活躍し、高3時には三ツ沢で決勝を戦ったインターハイにおいて準優勝を経験。高校の監督と加茂周監督との関係で、JSL(日本サッカーリーグ)2部から1部に復帰した1982年に日産サッカー部の一員となる。日産の社内用チーム紹介には「ボール扱いが正確でパスの能力が高い」と評されている。
横浜工場の経理課に配属されたが、サッカー部員では珍しかった。決算期になると練習を終えてから仕事に戻ったこともあった。
1年後には水沼貴史、柱谷幸一ら1979年のワールドユース組が加入してきたなかで、なかなか試合に絡むことはできなかった。それでも楽しかったという。
「樋口靖洋さん、松永成立さんたち先輩たちにはかわいがってもらえましたし、また金田喜稔さんや木村和司さんのような上手な人たちと一緒にサッカーができるわけですから。当時は若手主体のリーグ戦があって優勝もできました。いい思い出ばかりですよ」
4シーズンを終えて会社から選手として事実上の戦力外通告を受けることになるものの、現役を続けたいという思いを汲んだ日産の紹介によって静岡に拠点を置く東海社会人リーグのジヤトコに出向という形で移籍する。ここではチームの中心を担っていく。
出向期間は3年で終わりだったが、2年延長。そんな折、たまたまアカデミーの合宿地を探していた日産サッカー部の先輩・樋口靖洋に偶然出会い「現役を辞めたら、サッカースクールを手伝ってくれよ」と言われたことが胸に響いた。
ジヤトコでは最後の2年間、コーチを兼任するようになり、日産サッカー部からの正式な要請もあって現役を引退して会社に復帰。工場への配属を経て1991年4月、新子安にある日産サッカースクールへの配属が決まった。
請け負ったのがスクールとプライマリーだった。前者はあくまでサッカーの楽しさを子どもたちに伝えることが目的で、選抜クラスとなる後者は強化色を強めていくために要求することも増えていく。
熱心な指導によってプライマリーでは金子勇樹(2001年にトップ昇格)らを率いて、全日本少年サッカー大会にも出場を果たす。しかし和田自身は「無知でした。子どもたちには申し訳ないことをしました」と話す。どういうことなのだろうか。
「自分のサッカー観を押しつけてしまっていました。元々、僕はプレーヤーとしてスピードがなかったこともあってテクニック、スキルというものを大切にしてきましたし、(指導には)僕のこだわりを反映させていました。もっと子どもたちの発想やアイデアを豊かにしなきゃいけないのに、先輩たちの指導を見ていくなかで知らなかったことを知るようになると、自分の考えを押しつけるのは違うなって理解したんです」
日産時代の攻撃サッカーをベースに置いていた。ボールを支配して、イニシアチブを握る。「ワンチ」と呼ばれながらサッカーを教えてもらった加茂のイズムこそが自分のサッカー観になった。しかし押しつけてしまうのは「育成」ではないと気づかされたのだ。
きっかけは1994年にあった。
監督を務めていたプライマリーU-12に、新5年生となった榎本哲也(2002年にトップ昇格)、藤本淳吾(ジュニアユースまで在籍し、桐光学園、筑波大へと進学。2014年から2年間、F・マリノスでプレー)らが入ってきた。小学3、4年時に監督として指導した樋口から「ワンチ、哲の代もちゃんと見てあげてな」と頼まれていた。
なぜわざわざそんなことを先輩は言うんだろうか。その意味を真に理解したのは1年後だった。
「4年間教えた金子たちが卒業して、哲らが最上級生になったときに、僕が思っているようなプレーを彼らはできなかった。そのときに、ちゃんと見てあげられていないじゃないか、と反省したんです。樋口さんは僕(のアプローチ)とは真逆で、子どもたちの発想やアイデアをもの凄く大事にされていました。僕が子どもたちに自分の考えを押しつけていると思ったから、わざわざそう言ってくれたんだと思います。このときからです。彼らの発想やアイデアこそ大切にしなきゃいけないというところにガラッとシフトチェンジできたのは」
後日談がある。
自分の考えを押しつけてしまったことが心にずっと引っ掛かってしまい、プロになった金子と一緒に食事をした際「あのときは悪かった」と詫びたそうだ。
金子のほうはなぜ謝られているのかピンと来ていないようだった。
「勇樹は〝別に押しつけられてないですよ。全国大会に出られて良かったし、楽しかったし、いろんなことを学んだ〟と言ってくれたんです。ちょっと救われた気にはなりました」
本人は押しつけたつもりでも、子どもたちは押しつけられたとは思っていない。上手にさせてあげたいとの熱意はきちんと伝わっていた。
藤本からはのちに日本代表に選出されたときに、ブルーペナントと呼ばれる感謝状が和田に届けられている。そこにはこう記されてあった。
≪あの時教えていただいたことが身になり今の自分があります。改めてその大切さを思い出しました。これからも忘れずに頑張ります。ありがとうございました≫
藤本のみならず、谷口博之や齋藤学たちからも。子どもだった彼らに対して真摯に向き合っていたからこそ感謝されたのだ。
ここには和田の原体験がある。自分の中学時代に考えるクセをつけることができたのは、顧問の先生のおかげだったという。
「たとえば白線のラインカーを引いていたときに石灰が出なくなって先生に伝えると〝なぜ出ないか仕組みを考えてみろ。ひっくり返すなり、何なり、人に聞く前に自分で考えろ〟とか、そんなことをいつも言う方でした。とても魅力的な先生でしたね。怖くもありましたけど、たわいもないことを話してくれることも多かったので」
考えることは、発想やアイデアにつながる。その大切さを分かっていたからこそ、迷うことなくシフトチェンジに踏み切れたのだった。
指導者時代、強烈な思い出として残っているのが新子安のプライマリーから、ジュニアユース追浜の監督に移った1997年のことだ。新子安が「本家」と呼ばれていた時代、横須賀の追浜にあるアカデミーの選手たちは激しいライバル意識を燃やしていた。その目は就任当初の和田にも向けられた。
「新しく3年生になるメンバーのなかには、新子安のヤツが何しに来たんだっていうような態度を取ってきて、明らかに反抗的な態度を取る子どもたちが何人かいたんですよ。指導を始めた最初の春休みはかなり大変でした」
雨の日、練習は予定どおりに行なうのに、その反抗的な何人かはグラウンドにやって来ない。ジュニアユースの競争社会において、それが本人の選択なら仕方ないと放っておくことだってできた。だが和田はそうしなかった。練習を終えてから一人ひとりに電話して「待っているから来い」と呼びつけてトレーニングを課した。反発するエネルギーを日々、我慢強くピッチに向けさせていった。
するとどうだ。ゴールデンウイークに評判の高かった坂田大輔(2001年にトップ昇格)らのいる横浜フリューゲルスジュニアユースに大勝したことで、選手たちの和田を見る目が変わった。
和田さんについていけば、俺たちはきっと強くなれる—―。
日ごろの練習からガラッと雰囲気が変わる。夏の日本クラブユース選手権(U-15)に出場し、ベスト8でヴェルディのジュニアユースと接戦の末に敗れたとはいえ「引けを取らない試合ができた」。中学生とどう接していけばいいかは、実体験も活きた。たわいもない雑談も、積極的に。練習中は厳しく、それ以外は明るく。いつしか「和田コーチ」から「和田さん」と呼ばれるようになっていた。
ある大雨の日だった。さすがに練習を中止しようとすると、抵抗したのは何と選手たちのほうだった。
「練習できるような状況じゃないのに、〝だったら走りましょうよ〟って言ってくるんです。半年前は雨の日、グラウンドに来なかった連中がですよ(笑)。夏からグンとチームの力が伸びていましたし、お世辞でも何でもなく、日本で一番になってもおかしくないほどの実力を備えるようになっていました」
秋の高円宮杯全日本(ユース)はベスト4まで勝ち上がっていく。決勝まであと一つ。しかし三菱養和との準決勝は、悔しい逆転負けで終わってしまう。もしここで勝っていれば新子安のジュニアユースと決勝で当たることになっていた。宿舎に戻ってから全員を集めると、みんなが泣いていた。もちろん和田も。
このときの情景を思い出したのか、和田の目はみるみるうちに真っ赤になり、言葉に詰まった。気持ちを落ち着かせた後、こう声を絞り出した。
「何とか勝たせてやりたかった。手が掛かったヤツらほどかわいいってよく言うじゃないですか。勝ってマリノス対決をやらせてあげたかった……」
反抗したメンバーの一人に、鈴木達也(ユースまで在籍。筑波大卒業後に柏レイソル、FC東京などで活躍)がいる。教え子の会合に呼ばれた際、本人からこう言われたそうだ。
「それまで僕たちは〝最悪(の世代)〟と言われていたんです。でも和田さんが来てサッカーが楽しくなった。サッカーを好きになった」
たまらなくうれしかった。その言葉は今も心のなかに大切に閉まっている。
以降の和田は現場とアカデミーを統括するポジションを行き来しつつ、「育成のF・マリノス」を確立させていく一人となっていく。気づけば30年を過ぎていた。あっという間だった。
横浜F・マリノスのアカデミーにおける原点はスクールにあると和田は言う。
「そもそもサッカーをする子どもたちがいなかったらこのスポーツは繁栄していきません。1985年に加茂さんが立ち上げた理由には欧州のクラブチームに倣って優秀な選手を輩出するためとか、選手OBが指導者になる道をつくるためとか聞いていますが、スクールという土台からつくったところに一番の魅力があるのではないでしょうか。
サッカーというスポーツは誰でもできる。ここを大事にすることが脈々と受け継がれているし、それがF・マリノスの魅力にもつながっていると思います」
土台を大切に、子どもたちの発想やアイデアを大切に。
受け継ぎ、守ってきたものは育成における明確なポリシーとなった。ここに和田武倫の尽力があったことは言うまでもない。