30周年記念コラム①:横浜マリノス誕生
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Text by 根本正人

 30年前の1992年4月1日、日産フットボールクラブ株式会社が設立。ここにプロチーム「日産F.C.横浜マリノス」が誕生した。
 その30年前の記憶を遡りながら、クラブ創設に関わった思い出や歴史を綴ってみたい。

 当時、前身の日産自動車サッカー部は、最後の日本リーグ(JSL)は2位であったものの、88/89年、89/90年と日本国内の三大タイトルを2連覇し、92年は、元日の第71回天皇杯で宿敵・読売クラブ(現・東京ヴェルディ)を破って優勝するなど日本サッカー界を牽引する強豪だった。

横浜マリノス誕生

 プロ化に向け、日産社内にスポーツ推進室が設けられ準備を進めていた。その佳境の中の1991年9月に私は入社した。
 最大のテーマであったチーム名は、横浜イコール港・海のイメージから数百に及ぶ候補の中から最も横浜らしい「マリノス」(船乗り)に決定。ただ商標上の問題からスペイン語となった。そのほかエンブレムデザイン、キャラクターも検討し、連日熱い議論を交わした。エンブレムは、日産サッカー部に描かれていた勝者のシンボル月桂樹が踏襲された。
 ホームタウン制を掲げるJリーグだったが、資本的にも親会社の日産自動車がメインで、チーム名には暫定ではあったが「NISSAN F.C.」が入った。
 キャラクターも神奈川県の県鳥で航海と世界に羽ばたくイメージから「カモメ」(マリノス君)に決定した。またJリーグが示すスタジアム基準を満たすためホームスタジアム三ッ沢球技場の改修工事も、この年の12月から着工された。
 本拠地は、横浜。日産自動車発祥の地でもあり、1972年に日産サッカー部が創部されたのも横浜鶴見工場だった。日本にサッカーが伝来した場所も、ここ横浜。ホームタウンとしてこれ以上ふさわしい場所はなかった。

 本社事務所は、新子安の日産の武道場を改修。現在、日産健康保険組合「日産メディカル」の場所だ。1階が会議室、2階が事務所。改修の責任者であったスポーツ推進室の室長であり、常務取締役だった熊地洋二さんが、生産管理部出身で、とにかく細かい人だった。壁紙や絨毯の色、素材などを決めるのにもひと苦労した。チーム名発表会では、横浜サッカー協会の会長の背が低いので皆がネームボードを持った時に隠れてしまうと熊地さんが言いだし、幅は何センチにするかで議論した。
 その本社事務所も、すぐに手狭になり、2年くらいして、すぐ近くの日産福利厚生施設の結婚式場パル・ドゥ・シャルムに移った。強化担当や監督を歴任した下條佳明さんも選手時代にここで式を挙げたという場所だった。事務所内は、式場そのままの赤い絨毯。グッズ倉庫には祭壇も残っていた。今は、巨大かマンション「ザ・パークハウス」が建つ。
 その他、日本リーグ時代は試合を盛り上げるチアガールがいたが、プロリーグでは新たな盛り上げが必要ということで、クラブの活動をPRするスタッフとして「マリノスクイーン」を採用した。1991年12月の一般募集には223名が応募され、「健康で明るくサッカーが好き」という基準をクリアした14名に決まった。翌年のJリーグ開幕元年には、応募者は何と1,000人を超える盛況だった。

 またチームのイメージソングも作らなくてはということで、当時一緒に働いていた代理店の提案で、「愛のゴォール」を制作した。PAPAS&MAMASというユニットが歌った。銀座でのレコーディングにも立ち会った。
確かサビは、
「夢の数だけボールを蹴り上げろ
Ole! Ole! マリノス 世界中に
約束するぜ 陽気な90分」
 イベントなどで曲をかけていたが、まったく認知されず、翌年には日本でゴダイゴに参加したトミー シュナイダーさんが総指揮をとり、パリで収録。フレデリックス、ゴールドマン&ジョーンズのメンバーも加わったユニット「B.R.B」が歌ったチームソング「YOKOHAMA FIGHT ON!」を発表した。
 グッズは、ソニークリエイティブがJリーグ全体を統括し、横浜に「カテゴリーワン」を展開した。横浜西口の髙※ハシゴたか島屋がマリノス、横浜東口のそごうに横浜フリューゲルスのショップがオープンした。その盛況ぶりが凄まじく、昔からのサッカーファンのみならず若い人、子どもたちが詰めかけた。ダービーマッチで激しく競り合ったマリノスとフリューゲルスだが、小学生が被るキャップの多さで、どっちのチームのほうが人気があるかのバロメーターになったほどだ。
 さらに当時横浜駅東口にあった日産横浜ギャラリー「ウィスポート」内に、1992年7月に日産自動車宣伝部の許可を得て、グッズショップ「マリノスプラザ」がオープンした。今はギャラリーもなく、山用品を扱う「カモシカ」がある。それと5月に開催される約40万の人出を呼ぶ横浜市最大のお祭り「国際仮装行列みなと祭り」にもオール日産神奈川グルーブの一員として参加した。フロートには選手たちも乗り、山下公園から蒔田公園までの5キロを練り歩いた。新しく出来たプロチームをPRするためだったが、マリノス君を初めてみた子どもたちが、「あっ、ドナルドだ」と言っていたのは、さすがにショックだった。

守り抜いた伝統のトリコロール

 2022年横浜F・マリノスのホームユニフォームは、30年前のクラブ創設期の復刻イメージとなった。Jリーグ内にいろいろな委員会が設立された中に「ユニフォーム選定委員会」もあった。1993年からはミズノが全10チームのユニフォームを供給することになっていたが、日産時代からアディダス製を着用する横浜マリノスにとっては大きな問題だった。1993年は、リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダスとなった。その前年の1992年は、アディダスで袖の下の部分がカモメが翼を広げた羽根をイメージしてデザインされた。スポンサーは、胸にNISSAN、背中にKodak、左袖にBPが付いた。また委員会ではチームカラーに「青」を主張するクラブがいくつかあり、どこも親会社の企業カラーを背負っていただけに白熱した議論となった。当時、国内の強豪でもあったことで、最後まで競ったガンバ大阪が、青と黒にすることで日産時代からの伝統のトリコロールカラーを守ることができた。

 Jリーグ開幕の前哨戦として開催されたJリーグ ヤマザキナビスコカップは、10チーム1回戦総当たりの予選リーグが行われた。元ブラジル代表で、当時のエースだったレナトの負傷もあり出足で躓き、結局、5勝4敗の7位で決勝トーナメント進出を逃すことになった。
 スタッフも人数が少なかったので、いろいろな仕事をやった。何とスカウトもやったと言ったらビックリされるだろう。ある選手の獲得に高校の大会を視察しに奈良まで行った。学校に出向き監督と会い、選手のご両親にも会って加入に漕ぎつけたのは今となってはいい思い出だ。

1992年は、翌年に控えたJリーグ開幕に向けて、とにかく忙しい日々であった。


根本正人

 日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノスでは広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。