横浜F・マリノスのホームスタジアムは、1993年のJリーグ開幕当初からは三ッ沢球技場で、1998年に横浜国際競技場(2005年より日産スタジアム)が完成すると、主に日産スタジアムを使用しながら三ッ沢球技場も併用されている。
三ッ沢球技場は、第2次世界大戦で荒廃した中、横浜市民のスポーツ振興とサッカーの普及、また各都市との親睦と交流を目的に1951年(昭和26)に建設が着工され、1955年(昭和30)の第10回国民体育大会の神奈川県開催に合わせて完成した。
そして、何よりも1964年(昭和39)の東京オリンピックにおいて、ここ三ッ沢でサッカー競技が開催されたことが、横浜において少年サッカーの飛躍的普及につながっていった。
その東京オリンピックで横浜にサッカーを呼ぶにあたって尽力されたのが、横浜サッカー協会第3代会長の故・佐藤實さんだった。東京高等師範(東京教育大)で名プレーヤーとして活躍。1921年(大正10)に中国・上海で開催された第5回極東大会(アジア大会)で日本サッカー代表の主将として出場。その代表のメンバーのひとりが、64年当時に日本サッカー協会の会長を務めていた故・野津謙さんだった。かつて主将と選手だった強い絆が、横浜でサッカーが行われるきっかけとなった。球技場改修や運営にかかる莫大な費用は、当時の飛鳥田一雄横浜市長や佐藤会長たち多くの人々の努力によって捻出され、無事に開催にこぎつけた。1964年10月11日に開催されたイラン対ドイツの一戦には、サッカーが人気スポーツでない時代に、1万3000人が詰めかけ大いに盛り上がった。オリンピックでは、横浜の男の子はサッカー、女の子はバレーボールに夢中になった。こうした先人たちのサッカーへかける情熱がなければ、今日の隆盛はなかっただろう。こういった歴史を知ることも大切だ。
三ッ沢球技場は、日本サッカーリーグ時代は、日産自動車サッカー部が試合を開催。1993年のJリーグ開幕に向け、再び改修・増設され、横浜マリノス、横浜フリューゲルスの「横浜ダービー」で白熱した試合を繰り広げた。また1995年ファーストステージ初優勝の栄冠も刻んだ。横浜駅西口からのアクセスもよく、球技専用だけにスタンドとピッチも近く、選手たちの息遣い、キックの音などが聞こえる臨場感溢れるスタジアムだ。
1998年に完成した横浜国際競技場は、10月に開催された「かながわ・ゆめ国体」のメイン会場として建設されたが、2002年FIFAワールドカップ日本招致の話が出て、それなら決勝開催地を目標に、当初6万収容を7万に拡大した。そのため陸上トラックを外すという計画を出たが、もともとは国体のためそれは不可能だった。それなら移動式観客席はとの話もあったが、鶴見川遊水地の上に人工基盤を作ったこともあり、構造上無理だった。多目的であり、ワールドカップの決勝会場にも適応するため、当時の日本サッカー協会の故・岡野俊一郎さんのアドバイスもあって、メインスタンドとバックスタンドを出来る限りタッチラインと平行する「方円形」という世界でも例のない独自のスタジアムを設計。競技者と観客が一体となった臨場感の高揚を図ったのだった。
埼玉との激しい決勝会場招致合戦の中、1999年8月6日、正式に横浜が決勝会場に決まった。当時、横浜市競技場整備室の建設担当者や東畑建築の設計担当者は、その瞬間に感激の涙を流したという。
ここ横浜国際競技場で、2002年ワールドカップで日本は、稲本潤一選手のゴールでロシアに1-0で勝ち、初めての勝利を飾った。6月30日に行われた決勝戦のブラジル対ドイツは69,029人の観客が詰めかけ、ブラジルの優勝を見た。
横浜F・マリノスも、2003年セカンドステージ最終節で久保竜彦選手の劇的な決勝ゴールで、ファーストステージに続き、2ステージ制覇の完全優勝を遂げた。また翌2004年ファーストステージ最終戦で鹿島アントラーズを破り、Jリーグ史上初の3ステージ連覇も成し遂げた。加えて2019年12月7日、最終節でFC東京を破り、4度目のJリーグチャンピオンにも輝いた。この日の観客数63,854人は、Jリーグ最多観客数記録を更新した。
三ッ沢から日産スタジアムへ。それぞれで数々の激闘が繰り広げられ、記憶に残る名勝負や栄光の瞬間があった。
そこで選手たちが戦い、それを見守るファン・サポーターの熱気、舞台を支える裏方の人たちの想い、クラブに関わる全ての人たちの気持ちがひとつになり、歴史を積み重ねることでホームスタジアムの意義がさらに深まり、「聖地」と呼ばれる日が来るに違いない。
根本正人
日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノス株式会社では広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。