今回は、外国籍選手の系譜をテーマに、私にとって思い出深い選手たちを取り上げてみた。
Jリーグ開幕前の日本サッカーリーグ時代は、サッカー王国ブラジル出身の選手が主流だった。ヨーロッパ出身の選手に比べ人件費的にも大きく抑えられたことが最大のメリットだったと言える。前身の日産自動車サッカー部も、88-89シーズンに、ブラジル代表のキャプテンも務めたDFオスカーを獲得。同じくブラジル代表でも活躍したFWレナトと攻守の主軸が揃い、それまでタイトルの取れなかったリーグに初優勝するとともに、カップ戦、天皇杯も獲得し、国内すべてのタイトルを制覇する三冠に輝いた。ただ、そのオスカーもレナトもJリーグ開幕前にチームを去った。
中盤のダイナモであったエバートンは、そのまま残ったが、新たな点取り屋として迎えいれたのが、世界的なストライカーとして名を馳せていたアルゼンチンのFWラモン ディアスだった。相手GKをあざ笑うように逆をついたゴールへのパスとも思えるシュートの巧みさは絶品だった。人懐っこく、趣味で盆栽を始めるなどの日本のカルチャーにも興味を持っていた。奥さんと二人の息子と一緒に日産自動車のセレナのCMにも出演した。都内のスタジオでの撮影後に用意した超高級リムジンに乗らずに帰ったので、仕方なく私が乗った(笑)。後部座席はまるでベッドのように横になることができた。当時、弘明寺の日産の社宅に住んでいたのだが、近所の人に不審者なように見られ、とてもバツの悪い思いをしたのを覚えている・・・(苦笑)。
写真:サパタと筆者。マリノスタウンで再会。そのラモン ディアスを皮切り、代表経験を持つMFビスコンティ、MFサパタ。さらにはFWメディナベージョも獲得。このアルゼンチン人選手たちの働きによって1995年Jリーグ初優勝を勝ち取ることができた。
1997年、スペインの名門クラブやボリビア代表を率いたことのあるスペイン人アスカルゴルタが監督に就任すると、一気に外国籍選手も様変わり。スペイン代表として3度のワールドカップ出場を果たした屈指のストライカー、フリオ サリナスを獲得。188センチの長身ながら懐の深いキープ力を持ちゴール前でポストになるとともに、優れた嗅覚と足技で得点を奪い、7試合連続ゴールをマークした。
1998年フランスで行われたワールドカップ観戦の際、ランスで行われたスペイン対ブルガリアを見にパリから列車で移動した。パリの駅でバッタリ、アスカルゴルタ監督と出会った。「元気ですか? この試合にサリナスは来ているのかなぁ」と聞いたら、「いないよ。彼はサッカーが嫌いだから」と監督は言う。ハーフタイム、食べ物を買いにスタジアムの外に出たら、スペインサポーターとおぼしき青年が、声をかけてきた。付いていったら、何とそこにフリオ サリナスがいるじゃないか。「元気?」と互いに握手した。きっとジョーク好きのアスカルゴルタ監督にいっぱい食わされたのだろう。
そのアスコルゴルタ監督で一つ思い出したことがある。試合終了後の記者会見で、オフサイドとも言える微妙なゴールを記者から問われた監督は、「それはシマウマの模様が、黒に白縞なのか、白に黒縞なのかというくらい分からない」と、はぐらかした答えには笑った。
1995年以来、優勝から遠ざかる中で、外国籍選手はアルゼンチン色が一掃され、ブラジル籍選手は少なく、多国籍化していった。
1999年に加入した韓国代表のユ サンチョルも忘れられない選手だ。FWからDFまでこなすユーティリティープレーヤーで、2000年、さらに2003年と2004年と横浜F・マリノスのステージ優勝、Jリーグ優勝に貢献した。その闘志あふれるプレーは、チームに勇気をもたらした。長い闘病の末、2021年に亡くなったが、普段の穏やかな人柄は、多くのファン・サポーターに愛されただけに、彼の死を惜しむ声は今も絶えない。
2001年、J2降格危機に陥ったチームは、ブラジル人ラザロニ監督を緊急招へい。ピンチを救うべくFWブリット、DFナザ、DFドゥトラのブラジリアントリオと契約。この3人の活躍もあって、何とか窮地を脱することができた。特にドゥトラは、左サイドから豊富な活動量を武器に攻め上がりチャンスを作り、その後のJリーグ2連覇に大きく貢献した。
ちょっとシャイだが人懐っこい性格でファン・サポーターに愛された。一度、チームを離れ帰国したが、2011年に再びチームに戻り、衰えを知らないスタミナで活躍、2013シーズンの天皇杯優勝に貢献した。
王座奪還を目指す横浜F・マリノスは、2003年に岡田武史を監督ら迎え、前年の日韓ワールドカップで優勝を果たしたブラジル代表のキャプテンで、世界最高の右サイドバックと評されたカフーとの契約に合意したと発表した。これ以上ない助っ人の加入にファン・サポーターも沸いた。ASローマを退団し、いつ来日するかと待ちわびたが、結局来ず。最終的に違約金を支払う形でACミランが獲得した。選手名鑑用に、カフーがトリコロールのユニフォームを着ている写真がどうしても欲しい。たまたま中国に遠征にきていたカフーに挨拶に行くという当時のスカウト担当の田中利一さんに撮影をお願いしたが、「会った時は、終始うつむき加減で口を閉じ、ユニフォームを着てもらえなかった」との話だった。
写真:ラモン ディアスと筆者。ACL2017の決勝戦来日時。横浜F・マリノスの30年の歴史の中で、数多くの外国籍選手たちがプレーしてきた。わずかな期間しか在籍しなかった選手、活躍の機会もなく去った選手、大きくチームに貢献した選手と様々だが、皆さんにとって思い出深い選手は誰ですか。現在、プレーしている選手も含めて、これまでの外国籍選手を振り返ってみるのも楽しいと思います。
根本正人
日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノス株式会社では広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。