「スポーツを愛する多くのファンのみなさまに支えられまして、今日、ここに大きな夢の実現に向けて、その第一歩を踏み出します」
1993年5月15日、川淵三郎チェアマンの力強い開会宣言で、Jリーグが始まった。
開幕戦は、ヴェルディ川崎対横浜マリノス。東京・国立競技場は59,626人の大観衆の熱気と興奮に包まれていた。
当時、横浜マリノスの広報担当として、この日この場所にいられた幸運に今でも感謝している。
プロリーグ誕生を目指すと発表されたが1989年。ようやく、その時を迎えた瞬間であった。
この時、サッカーマガジン編集部で多くの国内サッカーを見てきた私も、この新しいプロリーグの立ち上げに何らかの形で携わりたいという強い思いから、会社を辞め、当時参画を検討していた浜松の本田技研に入社。埼玉・浦和を本拠地に進出を目指したが、会社の方針で断念。そのまま本田に残るか、サッカーに賭けるか葛藤の末、運よく1991年に日産自動車に入社することができた。
そして、この日が来た。木村和司選手、水沼貴史選手をはじめとする各クラブのベテランたちも、この日を夢憧れていた。
「この試合は特別だった。ずっと願っていたプロリーグが出来て、そのピッチに立てたことが嬉しかった」木村和司選手。
「年齢的にも33歳でギリギリ。この試合のピッチに立つことだけを目指していた」水沼貴史選手。
選手たちの思いと同様に、立場は違うとは言え、この場所にいられた感激は忘れない。
煌めくレーザー光線を浴びながらの開幕セレモニー。チームに付きっ切りで、ピッチ下の室内トレーニング場から垣間見ただけだが、感情の高まりとともに涙が出そうになった。きっと、この場にいた多くの人が同じ気持ちだったはずだ。
ヴェルディの旗を、マリノスの旗を掲げ振る大観衆。ファンではなく、サポーターという言葉が生まれた試合でもあった。
試合は、1点をリードされたマリノスが、後半にエバートン選手のゴールで同点。その11分後に、ラモン ディアス選手の決勝ゴールが決まり、逆転勝ち。記念すべきJリーグの開幕戦は、横浜マリノスの勝利で始まった。
当然、この国立のピッチの端かどこかで、その試合を見ていたはずだが、よく覚えていない。
後にテレビで何度も見た開幕戦。その記憶が入り混じっていてはっきりした記憶がない。
同点ゴール、決勝ゴールもどこかで「やった!」と握り拳を突き上げていたかもしれない。
日本リーグ時代には考えられない報道陣の数に、圧倒され、その対応で翻弄されていた。
長い一日だった。30年目を迎えたJリーグの歴史の中でも永遠に語りつがれるだろう開幕戦。それは横浜マリノスの勝利で始まったと。
10チームによるホーム&アウェイの2回戦総当たりの2ステージ制だったJリーグ。広報担当も二人で、とにかく全試合でチームに帯同した。広島、大阪など遠方で水曜日がナイターゲームなら後泊し、翌木曜日に帰ってきて、土曜がまた遠方であれば前泊か後泊。ほとんど家にもいないし、会社にもいない。とにかく忙しい日々が続いた。まだ若くて体力があったから出来たんだろうと思う。
その1993年は、優勝候補に挙げられながら第1ステージ3位、第2ステージも3位に終わった。Jリーグ開幕戦に照準を合わせ、きっと無理をしてきた木村和司選手、水沼貴史選手、エバートン選手のベテランMF陣が負傷で戦列を離れたことが大きな痛手となった。
その中でも忘れられないのが、5月22日のアウェイ名古屋グランパスエイト戦。試合前から降り続く激しい雨で、瑞穂球技場はいたるところに水たまりが出来る最悪のコンディションの中で行われた。1-1で勝負はつかず延長戦。どちらかが先に1点を入れたら試合が決まるサドンデスゴールが採用された試合は、延長でも決着がつかず、初のPK戦となった。5人目、途中交代出場の期待のルーキー三浦文丈選手のキックは、GKの完全な逆を突いてゴール左へ。しかし、ボールは水溜まりで失速。態勢を断ち直したGKにゴールライン上でボールはかき出され、試合終了。Jリーグ初のPK戦負けを喫した。
こんなことが起こるなんてと信じられない思いだった。
さらにマリノスサポーターにとって忘れられないのは、6月30日、雨の三ツ沢での浦和レッドダイヤモンド戦。マリノスは試合開始早々から攻勢で2点をリードした前半39分、ミスターマリノスこと木村和司選手の「イメージ通りだった」シュートは、ペナルティエリア右からきれいな放物線を描いたボールがゴールに吸い込まれた。木村和司選手がJリーグで最初に決めた、最後のゴールだった。このゴールは、今でも心に焼き付いている。
第1ステージと第2ステージの中断期の8月に、マリノスの守備の要で、Jリーグを代表するスターでもあった井原正巳選手が、磯子のプリンスホテルで結婚式をあげた。広報も日産の販売会社から新たに入社し、この日が広報デビューの木村昌実さん(現広報・渉外本部 渉外・HT部 部長)ともう一人を加え、3人で結婚式の取材対応をした。
新郎新婦より、先に会場に入り、二人が帰ったあとまで会場にいた。恐ろしく長い一日で、すべてが終わった後は、口もきけないほど疲れていた。
この少し前に結婚したヴェルディのスーパースター、カズも来た。運動記者クラブから「とにかく芸能記者の前に、自分たちに代表質問をさせてほしい」と言われ、それが終わった後に矢継ぎ早に芸能記者からの質問責め。
「ご質問のある方は挙手の上、社名、お名前を名乗ってからお願いします」という司会進行の私を完全に無視。凄まじかった。始まったばかりのJリーグは、それほど人気があり、ブームであった。
その井原選手で覚えているのは、試合観戦に来られる奥様やご家族と一緒に愛犬のゴールデンレトリバー「リック」を必ず連れてきた。そのため、「リック」と書かれたADカード(入場パス)を用意していたほど。懐かしい。
個人的な思い出に残るのは、ホーム三ツ沢で、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキー選手の活躍で0-5と完敗した試合だ。ホームゲームで記者会見の進行は、マリノス。私が司会をしたが、記者の要望でその場にリトバルスキー選手を呼ぶという苦い記憶だ。
その他、開幕戦で決勝ゴールをあげながらも、なかなか得点を決められないディアス選手だったが、チームにフィットすると、その高い得点能力を発揮してゴールを量産。ゴールにパスを流し込むようなシュート、GKの動きの逆を取るシュート、パンチのある強シュートとどれをとっても世界の一流のストライカーであることを証明した。28ゴールを記録して、Jリーグ初代得点王に輝いたことも忘れられない。
とにもかくにも、1993年のJリーグ元年は思い出深い一年だった。
根本正人
日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノス株式会社では広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。