30周年記念コラム④:波乱の2001年
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 2001年は、大げさに言えば天国と地獄を味わった1年だった。
 前年の2000年、ファーストステージに優勝したが、チャンピオンシップで鹿島に敗れた雪辱を晴らそうと挑んだオズワルド アルディレス監督の2年目は、攻撃の主力だったユ サンチョル選手、三浦淳宏選手が抜け、闘志が空回りしてズルズルと連敗。第5節でJリーグ発足以来、初めて単独最下位の屈辱を味わうことになった。さらに司令塔の中村俊輔選手がケガで長期離脱と悪いことは重なり、10試合を終えてアルディレス監督を解任。代わって下條佳明チームディレクターが暫定的に監督を務めたが、悪い流れを断ち切ることは出来ずに、ファーストステージは何とチーム史上最悪の15位になった。
 セカンドステージに向け、ブラジル代表監督も務めた経験豊富なラザロニ氏を監督に迎えた。そして、ナザ、ドゥトラ、ブリットのブラジル人選手が加入し、チーム立て直しを図った。

 しかし、守護神・川口能活選手がセカンドステージ途中でイングランドのポーツマスに移籍。こうした苦難に見舞われながらも、クラブが唯一獲得していないタイトルであるヤマザキナビスコカップでは、順調に勝ち上がり、初の決勝進出を果たした。
 決勝戦は、10月27日に東京・国立競技場開催された。当時、鹿島アントラーズと並ぶ2強のひとつであった、ジュビロ磐田と対戦。試合は、磐田が誇る攻撃力を、F・マリノスが高い集中力で防ぐ展開。後半終了間際の86分に永山邦夫選手が2枚目の警告で退場したもののお互いスコアレスで90分を終えた。延長戦も10人で戦うチームは気迫を失わず120分を戦い終え、PK戦へ突入。
 川口選手が抜けた後、ゴールを守る22歳の榎本達也選手がPKを3本も止める大活躍で、クラブ初のヤマザキナビスコカップ優勝に導き、大会MVPに輝いた。永山選手の退場で、磐田の攻撃に耐えられるか不安いっぱいで試合を見つめていたが、PK戦に勝った瞬間は本当にガッツポーズが出るくらい嬉しかった。

 しかし、リーグ戦ではなかなかこの勢いを繋げられず、下位に低迷した。第14節、三ツ沢でのガンバ大阪戦は満員のファン・サポーターが詰めかけ、強烈にチームを後押しした。スタンドに掲げられた「絶対残留」の弾幕に彼らの思いが、こちらにも伝わってきた。試合は、先制点を許しながらも後半に粘り強く逆転し、2-1で勝利。いよいよ最終節、アウェイでのヴィッセル神戸戦に引き分け以上ならJ1残留が決まるところまでこぎつけた。

 この時の会社の雰囲気も暗かった。出社すると、残留を願い、千羽鶴を折ろうと机の上に、小さな折り紙がひと袋置いてある。それを誰もが下を向いて一生懸命に鶴を折った。すべて折り終わると、また次の日にも折り紙が机に置いてある。もう仕事どころでなかったなぁ…。何羽、鶴を折ったのだろうか。
 そして11月24日、最終節の神戸戦は、前半14分にドゥトラ選手が先制したが、30分には追いつかれる展開。その後はともに追加点なく試合は延長戦へ(この時代のリーグ戦は延長戦方式であった)。

 実は、この試合は現地に帯同していなかった。翌25日に開催される横浜ベイスターズとの初の合同ファン感謝デー「ドリーム・フェスタ」の準備のため、横浜スタジアムに同僚2人といた。試合は、準備の合間を縫ってテレビで観戦していた。
 もう、手に汗握る展開。冷や冷やする場面もあり、ベイスターズ関係者に「この試合に負けたら、明日選手は来ないです。ファン感はできません」と頭を下げた。
 そして、祈りが届いたのか、何とか1-1のまま試合終了。なんとかJ1残留を決めた。
 合同ファン感も、ソフトボールやサッカー対決に100メートル走、綱引きなど大いに盛り上がった。初めてバットを持つドゥトラ選手などブラジル人選手たちは、バットの持ち方が分からず、しかもゴロを打って三塁方向に走るなど笑いもあった。本当に無事に開催できて良かった。

 Jリーグ発足以来、J1リーグに留まるのはオリジナル10である鹿島アントラーズと横浜F・マリノスの2チームだけ。しかし、この2001年ほど危機を感じたシーズンはなかった。

2013年にマリノスタウンを訪れたアルディレス元監督との記念写真。78年アルゼンチンワールドカップ優勝の立役者で、選手としても超有名だった。

2013年にマリノスタウンを訪れたアルディレス元監督との記念写真。78年アルゼンチンワールドカップ優勝の立役者で、選手としても超有名だった。

根本正人

 日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノス株式会社では広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。